ビブリオエッセー

過酷な逃避行を支えたのは 「我が足を信じて―極寒のシベリアを脱出、故国に生還した男の物語」ヨーゼフ・マルティン・バウアー著 平野純一訳(文芸社)

本が友だちだった私に旅の仲間ができたのは還暦の同窓会だった。孤独だった人生の方向転換を図り、幾度も楽しい旅を経験したが、いつも笑って相づちを打たなければならない大人のつきあいに少し疲れたのも事実だ。

友だちとの旅に本は持っていかない。コロナ禍で予約したツアーが中止となり、再び大好きなロード・ノベルで一人旅を楽しんでいた時、この本に出会った。

本書は想像を絶する過酷な逃避行の実話だ。主人公クレメンス・フォレルは第二次大戦でソ連軍の捕虜となり、25年の重労働の刑を科されシベリアへ送られた元ドイツ兵である。

フォレルはソ連の最東端デジニョフ岬の鉛鉱山の採掘場から1949年10月、脱走した。極寒のシベリアを耐え抜き、テヘランへたどり着くまでの3年2カ月は息をのむ記録だ。しかし不思議にも読後の恐怖感がない。著者バウアーによるフォレルからの聞き書きは事実を端的に描いた感傷のない文体で、危険と隣合わせのシベリアの風景描写にも想像がふくらむ。

多くの人たちの助力があった。脱走のための食糧や武器などを用意してくれたのがドイツ人医師。フォレルはこの医師に「天国で待つ」との妻への伝言を託される。そしてトナカイを飼う雪原の遊牧民やオオカミからフォレルを助けたヤクートの人たち。彼らはソ連側の人間だがシベリアで生き抜く術を教え、大事なハスキー犬を与えて故国への帰還を助けた。フォレルに共感し、好感を抱いたからだ。

現代は人と人が情報端末を通さずに出会い、行動をともにし、語り合う機会がますます少なくなるだろう。だからこそ、この物語に描かれた過酷な環境での人情や叡智、ふれあいに胸が熱くなる。

兵庫県西宮市 木下憲子(70)

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