ロングセラーを読む

哀切な感情ドラマ カズオ・イシグロ著『わたしを離さないで』

『わたしを離さないで』カズオ・イシグロ著、土屋政雄訳(ハヤカワepi文庫)
『わたしを離さないで』カズオ・イシグロ著、土屋政雄訳(ハヤカワepi文庫)

2017年にノーベル文学賞を受けた長崎生まれの英作家、カズオ・イシグロ氏の受賞後初となる小説『クララとお日さま』が発売されたのは今年3月。人工知能(AI)を搭載したロボットが語り手となる哀切な長編を読んでいて胸に浮かんだのは、彼の代表作の一つ『わたしを離さないで』(05年)だった。〈提供者〉〈保護官〉〈回復センター〉…。『わたしを離さないで』では、そんな聞きなれない言葉がとくに説明されることもなく、話が先へ進む。深い霧をさまよううちに、徐々に世界の輪郭が立ち上がっていくミステリー風の読み味が似ていたからだ。そして、物語の随所に出てくる悲しげだけれど、温かくて美しい夕日の情景も。

早川書房から平成20年に刊行された文庫の累計は76刷73万部を超える。日本でもドラマ化された人気作は、クローン技術が浸透した「もう一つの世界」を描く。舞台は1990年代末の英国。寄宿舎風の施設で学ぶ主人公の男女3人は、表向きはほかの子供たちのように、絵や詩作、スポーツに励みながら成長する。でも、やがて自分たちが他人にあるものを「提供」するためだけに生かされた特殊な存在であることを知る。とても短く、過酷な運命を強いられた若者たちの悲痛な物語だ。抑制の効いた語り口とは対照的に、激しい感情のドラマが展開される。男女の壊れやすい友情と恋愛をつづり、強く信じていたことが崩れてしまったときの失意と孤独を丁寧にすくい上げる。主人公らを見守る教師たちの葛藤や苦悩も見逃さない。

イシグロ氏は来日時のインタビューで、「命は、はかない。私はこの作品をSFというふうには考えていない」と語っていた。とっぴな設定にみえて、実はひとごとではない。誰にとっても人生は有限で、終わりは思いのほか早く来るかもしれない。作家はその真理を、虚構の力を使って強調しているだけなのだ。逃れられない現実をどう受け入れ、どう生きていくのか、と静かに問いかけながら。

一生で成し遂げられることは限られている。でも日々積み上げた小さな喜びの瞬間は他者の記憶の中で生き続ける。そう思ったとき、悲しいディストピア(反理想郷)的な小説が優しい色合いを帯び始める。