深層リポート

秋田城跡に姿みせた連絡橋 明治期の痛恨の過ち補う工夫も

「斜めに架かる橋の左橋台が政庁西端を示す」と説明する秋田城跡歴史資料館の伊藤武士事務長=秋田市(八並朋昌撮影)
「斜めに架かる橋の左橋台が政庁西端を示す」と説明する秋田城跡歴史資料館の伊藤武士事務長=秋田市(八並朋昌撮影)

1300年前の天平年間、朝廷が最北の地方拠点として置いた秋田城(秋田市)。この史跡を貫通する旧国道(羽州街道)に架かる「秋田城跡史跡公園連絡橋」が姿を見せた。5年がかりで建設が進む連絡橋には、実は140余年前の明治期、近代化を急ぐあまり秋田県が犯した痛恨の過ちを補う重要な役割が盛り込まれている。

道路開削で地盤消失

秋田城跡は日本海の旧雄物川河口に面し、砂丘層に覆われた海抜30~40メートルの高清水岡に広がる。行政と軍事の機能を併せ持つ城柵の外郭(東西、南北ともに550メートル)と、その中心部にある政務を行う政庁(東西94メートル、南北77メートル)に、高さ4メートルの瓦ぶき築地塀が巡らされていた。

「奈良時代前半に瓦ぶきの築地塀で囲われたのは平城宮殿、太宰府と秋田城だけ」と秋田城跡歴史資料館の伊藤武士事務長は指摘する。なだらかに起伏する丘に復元された築地塀や門、東大路(幅12メートル)などが、はるか天平の昔をしのばせる。

だが政庁跡は、出土・復元された正殿など3棟の建物の基礎部分にあたる柱跡と東門のほかは、あるはずの西脇殿や西門、南門がない。跡ばかりか政庁の南西側3分の1は地盤そのものがない。

江戸時代、この政庁跡の上を通った羽州街道の新道は丘越えの急坂だった。それを平坦(へいたん)な馬車道にしようと秋田県が明治9年、地盤部分を削り長さ400メートル、最大高約8メートルの切り通しを開削した。同14年の明治天皇東北巡幸に合わせて近代化を急いだのだ。

その後昭和初期まで拡幅や宅地造成が行われ、政庁跡の3分の1が破壊され消失した。

橋で史跡〝復元〟

連絡橋は、政庁跡残存部と外郭西門跡や資料館がある南西部を結ぶ全長約19メートル、幅約3メートルの鉄鋼コンクリート合成橋。旧国道に対し直角ではなく斜めに架かり、両橋詰に10メートル四方の広場がある。総工費4億円余は文化庁と市が折半する。