話の肖像画

渡辺元智(12)集団脱走した選手が切り開いた横高野球

選抜大会で史上初のサヨナラ満塁本塁打を放った長崎誠選手(左) =昭和48年3月、甲子園球場
選抜大会で史上初のサヨナラ満塁本塁打を放った長崎誠選手(左) =昭和48年3月、甲子園球場

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《永川英植投手のほか、昭和48年春の選抜大会で初出場初優勝に貢献したのが長崎誠選手だ。永川投手の1学年上で、優勝した選抜大会で2本塁打を放ったスラッガーでもある》


初出場初優勝という大きな仕事を成し遂げたチームなのですが、実は長崎の代の部員たちは集団脱走を起こしているんです。長崎たちがまだ下級生で、夏の神奈川大会を控えていた頃だと思います。宿敵・東海大相模を倒して甲子園に出場し、全国優勝を、と力が入っていた時期でした。私も厳しかったのですが、鍛え抜いた上級生たちも必死で、後輩たちを同じ目標に向けようと説教などで指導していたのです。

そうしたある日、長崎や野口博之、渡辺透ら複数の部員の姿がグラウンドにない。不穏な空気は感じていたのですが、よもや集団で練習をボイコットするとは思いも及びませんでした。長崎たちはいったい、どこに行ったのか。見当がつかないところを助けてくれたのが、心強い保護者の方々でした。私の厳しさを理解してくれ、教師や部活の監督には息子を厳しく鍛えてほしい、という人たちです。とりわけ、きっぷのいい野口の父親は、集団脱走の一報を受けると、年下の私に「監督、心配しないでください。みんな連れ戻すから。土下座して謝らせます」と、すぐに情報収集に走り、捜索活動に乗り出してくれました。


《集団脱走は計画的だった》


集団脱走は私にとっては水面下のできごとで、いまだに全容を把握していません。複数の選手に聞いてみると、脱走した部員たちは3方面に分かれて逃走したようです。合宿所から脱走した渡辺が山梨出身だったので、勘のいい野口の父親が、渡辺の実家を頼って山梨方面に向かうのではと先回りし、新宿駅に行く前の駅で複数の部員を確保してくれました。長崎はこの一団に属していました。

ほかの2集団は学校近くでほとぼりが冷めるまで身を潜め、それからどこかに行こうと思っていたようです。こちらも保護者の情報網にかかり、連れ戻されました。部員は一人でも欠ければ、チームの雰囲気が変わります。無事に帰ってきてくれて私は安堵(あんど)しましたが、なぜか連れ戻された部員たちにも、どこか安心したような表情があったように記憶しています。野球から離れようとしながらも、もし二度と野球ができなくなったら、という思いがあったのではないでしょうか。


《長崎選手は甲子園の歴史に名を刻んだ》


長崎は選抜大会の初戦、小倉商との試合で大会史上初のサヨナラ満塁本塁打を放ちました。相手の門田富昭投手は後に大洋に入団するほどの好投手で、試合は永川との投げ合いで2―2のまま延長に。後半からは門田投手に抑えられ、完全に敗戦の展開。延長十三回のあの場面、長崎が打たなかったら間違いなく負けていました。あの接戦をものにしていなければ初戦敗退で、今日の横浜高校はなかったと思います。私の人生のターニングポイントのひとつとなった試合でした。

長崎は準決勝の鳴門工戦でも本塁打を打ったのですが、そんな過去を自分からは一切口にしません。「秘すれば花」という男なのです。卒業後は社会人野球を経てゴルフ界に転身し、今では日本プロゴルフ協会(PGA)の副会長になりました。野球部OB会でも会長補佐として千明和美、渡辺仁ら教え子とともに尽力してくれています。脱走といい、甲子園での本塁打といい、長崎は横浜高校の歴史を変えてくれました。(聞き手 大野正利)

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