本郷和人の日本史ナナメ読み

古文書学と破格文書㊦忘却の学者、平泉澄の「大発見」

北条高時像(模本、東大史料編纂所蔵)
北条高時像(模本、東大史料編纂所蔵)

後醍醐天皇は倒幕のために、武士たちに味方としてはせ参じよ、と文書を遣わした。ただし文書はやみくもに書けばよい、というものではない。作成するに当たって、いろいろと留意すべき約束ごとがあった。そのうちもっとも重要なことは、後醍醐天皇の尊厳を傷つけない、ということだった。そのために、天皇は侍臣になりきってまで、奉書形式の綸旨(りんじ)を出すことにした。受取人の立場がさらに低いと見なされた場合は、綸旨の形すら守れず、侍臣の名を用いた直状(じきじょう)で、古文書学的な観点からは文書名をつけようもない、何とも奇妙な文書を出すことになった。前回まで、そう書いてきました。

Aさんが所蔵する巨勢(こせ)宗国あての文書は、後醍醐天皇がしたためた、ある意味、珍品中の珍品でした。それを発見したぞ、とぼくは有頂天になりました。ところが結果としては、その認識は半分は正しかったのですが、半分は正しくなかったのです。どういうことかというと、Aさんに教えていただいたのですが、かつてこの文書が後醍醐天皇の筆によるものだ、と見破った学者がいたのです。けれども、その人の仕事は捨て去られた。業績もなかったことにされた。そうした過去があった上で、ぼくが何十年ぶりにもう一度発見した。そういう因縁があった。

仕事や業績が忘れられた学者。そう、お分かりでしょう。それは戦前の平泉澄(きよし)先生でした。先生の論文や著作は、戦後に皇国史観が否定されるとともに、東大の日本史研究室から廃棄され、先生の仕事を引き継いだ研究者もいなかった。彼らは大学の研究室から姿を消し、教科書調査官になっていくのです。そのため、この地域でこうした文書を発見した、などの細かな業績は忘れられていた。ただし、Aさんのお宅には記憶が残り、それをぼくに伝えてくれたわけです。だから、A家の文書が後醍醐天皇の字であることを見つけたのは、あくまでも平泉澄。ぼくはそれに、もう一度注目したにすぎない、ということになります。残念!

まあ、ぼくの個人業績なんて、歴史学とか古文書学からすると瑣末(さまつ)なことですからおくとしましょう。ただ、先に紹介した「古い剣があったら献上してくれないか」と願う出雲大社あての文書、さらに巨勢宗国あてのこの文書のことを併せ考えると、隠岐から脱出して伯耆(ほうき)の船上山にいた頃に後醍醐天皇が発給している綸旨の中には、天皇が側近の蔵人などになりきって、実は自身で書いたものがあるのではないか、という推測が成り立つのです。おお! これは大ごとだ。ぼくは急ぎ当該期の綸旨の字体の検討を始めたのです。すると…この推測は大当たり! 次々に後醍醐天皇直筆の綸旨が見つかりました。

これは何らかの形で、まあ論文や調査報告として、発表しよう。そんなことを考えながら検討を進めているとき、史料編纂(へんさん)所のある先輩所員が話しかけてきた。本郷くん、珍しく一生懸命文書を調べているけれど、何をしているの? おお、よくぞ聞いてくれました。ぼくは興奮気味に答えました。これこれで後醍醐天皇の直筆文書がまとまって検出できそうなんですよ! すると、先輩はなにそれ、と言わんばかりの表情で、吐き捨てるように言いました。私はねえ、南北朝時代の文書だろうが江戸時代の文書だろうが、天皇の文書だろうが農民の文書だろうが、どの文書もとても大切であって価値に差なんてないと思っています。

いや、これには参りました。歴史の主人公は織田信長とか坂本龍馬などの英雄ではなく、名もない一介の庶民であるべきだ。こういう考えにはたしかに一定の真理があるのでしょうけれど、何もそんな言い方しなくても。冷や水をぶっかけられた気になり、鼻白んだぼくは、後醍醐天皇の文書を追いかける作業を途中でやめてしまいました。その方は後に史料編纂所がもっている島津家文書の国宝指定に尽力されていました。あれ? そこにこだわるんですか。国宝だろうが、重要文化財だろうが、指定のない文書だろうが、差をつけるのは違うんじゃなかったの? 正直ぼくはそう思わずにはいられなかった。平泉先生の皇国史観といい、おそらくこの方の奉じる唯物史観といい、ぼくが目指している中立的で客観的な歴史学なんてものは、存在しないのかもしれませんね。むずかしいところです。

さて、天皇が隠岐に流されていたときに、小さくなってしまった倒幕の火を守り抜いたのが、大塔宮護良(おおとうのみやもりよし)親王でした。親王は武士たちに令旨(りょうじ)を発し、「北条時政の子孫、北条高時を討て」と呼びかけます。その親王の命がけの行動と後醍醐天皇の奮闘は見事に実を結び、鎌倉幕府は倒れました。その結果、建武新政府が産声を上げたのです。

ここで注目すべきは、「朕(ちん)が新儀は未来の先例」と言って、武士の政権参加を拒絶する全く新しい政権を構想した後醍醐天皇さえも、「新しい文書」を生み出せない、ということです。天皇自身がどれほど進取の考えをもっていても、大きく見ると伝統が支配する空間に存在する以上、文書のルールや様式に縛られる。そのことを指摘し、来月につなげます。

■後醍醐天皇を隠岐に流した北条高時

1303~33年。得宗で9代執権、北条貞時の子として生まれる。母は安達氏。貞時は死去の際、実務を内管領長崎高綱・高資父子と安達時顕に委ね、高時は彼らの庇(ひ)護(ご)のもとで成長した。高時は正和5(1316)年に14代執権となるが、政治はもっぱら長崎と安達が主導したものと考えられている。同時代の史書は、彼について「頗(すこぶ)る亡気(痴呆)の体」と酷評している。田楽と闘犬に興じる暗君とされているが、その実像が十分に解明されているとはいえない。

【プロフィル】本郷和人

ほんごう・かずと 東大史料編纂所教授。昭和35年、東京都生まれ。東大文学部卒。博士(文学)。専門は日本中世史。