勇者の物語~「虎番疾風録」番外編~田所龍一(347)

門田の涙 さようなら南海ホークス

南海ホークス最後の試合で涙する門田=昭和63年10月15日、大阪球場
南海ホークス最後の試合で涙する門田=昭和63年10月15日、大阪球場

■勇者の物語(346)

昭和63年10月15日、ついに南海ホークスの最後の試合を迎えた。近鉄との26回戦、大阪球場。試合は6―4で南海が〝有終の美〟を飾った。

グラウンドに横一列、ナインたちが並んだ。トランペットの音が響き、センターポールに掲げられていた球団旗がゆっくりと降りていく。

『さようなら 南海ホークス』

『50年間声援ありがとう』。スコアボードの文字が一枚一枚めくられていく。そして杉浦監督が大歓声の中でマイクに向かった。

「来年は平和台球場を本拠地にホークスは生きていきます。長嶋が引退のとき〝不滅です〟という言葉を使いました」

杉浦監督の目にも熱いものがこみ上げてきた。

「ホークスは不滅です!」

選手たちもスタンドのファンもみな泣いた。そして福岡行きを拒否した主砲門田も花束を手に目頭を押さえた。

この最終戦の前日(14日)、門田は大阪市内のホテルでダイエーの鵜木新球団社長と会い、福岡へ行けない理由を説明。在阪球団へのトレードを志願していた。福岡へ行けない理由はこうだ。

①福岡へ行けば遠征がいま以上に多くなり、来年41歳になる自分には体力的にも精神的にもきつい

②長男(当時高校生)と長女(中学生)の学校の問題

鵜木社長は「戦力的にも人間的にも君を手放すことはできない」と強く慰留。来季の年俸も「1億円を保証する」と断言した。だが、門田の気持ちは変わらない。<さようなら南海ホークス>門田の涙は、まさに〝決別の涙〟だった。

在阪球団の門田の争奪戦―。スポーツ紙は一斉に書き立てた。阪神の村山監督は「こちらから〝下さい〟とは言わん。セ・リーグに来れば一塁をやるとしても、守りの負担で相当打撃に影響する。40本も打てんやろ」と語り、いち早く候補から外れた。阪急もすでにDHには石嶺がおり一塁にはブーマー。入り込む余地は少ない。となると有力なのは近鉄。

「門田君にとってウチの土のグラウンドは魅力でしょう。それに彼はウチの沿線(近鉄奈良線学園前駅)に住んでいますからね」

近鉄の前田球団代表は胸を張った。(敬称略)