東京特派員

湯浅博 ここは白州、手づくり山荘から

南アルプスの山並み
南アルプスの山並み

南アルプス山麓にある山梨県の白州は、すっかり秋の色に染まっていた。幹線道路を外れて林道に入ると、黄色のダケカンバや赤いカエデやモミジが目にも鮮やかだ。「2年ぶりの白州だ」という山仲間のクルマは、渋滞を脱してからも何度か道を間違えた。その山荘にたどり着いたときには、すでに午後1時を回っていた。

前日から入山していた先行の先輩たちは、待ちきれなくて近くの入笠山の山頂をめざしていた。携帯電話でこちらの山荘到着を知らせると、「いまから追いかけてこい」などと酷なことを言う。「そんな無慈悲な」と、かわして山荘に入った。

かつては、「雪よ、岩よ、われらが宿り」とアルピニズムを気取っていても、先の3人を含め、われら計6人は、全員が70歳を超えている。武漢発のコロナ禍がなければ、年に一度、15人ほどがこの山荘に集まって近くの山を登っていたようだ。

山荘背後の南には、南アルプスの甲斐駒ケ岳から北岳の3000メートル級の山々が続き、北は権現岳から赤岳、天狗(てんぐ)岳へと八ケ岳が延びる。さらに、東の連山は金峰山から国師岳、甲武信ケ岳の奥秩父である。どちらへ向かうにも、ここは絶好の登山基地を提供してきたに違いない。

ログハウスの入り口には、「本郷岳友会山荘」と手作りの看板がかかる。われら嶢峰(ぎょうほう)山岳会とは姉妹関係にある本郷の山仲間が、平成10年から週末を利用して半年がかりでつくり上げた。工期の終わり頃だけ、建具屋さんに依頼したが、そのほかすべては自らの手で建設した。

本郷岳友会メンバーの粘り強さには驚くばかりだ。一度だけ、彼らとザイルを組んで日本第2位の高峰、北岳バットレスの岸壁を登攀(とうはん)したことがある。鍛え抜かれた彼らは頼れる山仲間であり、体力、気力、技術とも充実の日々であった。

山荘づくりのきっかけは、北アルプスの剣岳で転落死した若いアルピニストの父親から懇親会のたびにいただく心付けを元手に、300坪ばかりの土地を入手したことに始まる。足りないところを会員が持ち寄って、ついにロフト付きの山荘を完成させた。

剣岳を登る彼の遺影が奥の壁に掛けられていた。壁の写真はほかにもまだ4つあり、冬季の剣岳小窓ノ王で3人、夏季の同じ剣岳チンネの岩場で1人がそれぞれ遭難死していた。

白州の山荘ができる前は、谷川岳の芝倉沢と湯檜曽川の出合いにある成蹊大学山岳部の「虹芝寮」を使わせてもらった。一ノ倉沢を登攀した者、東京から林道を直行してきた仲間たちが、ここで落ち合って酒を酌み交わした。

往年の猛者たちは、山の話になるととめどなく、酒量も増えていく。持参の酒がなくなると、一番若いA君が「酒を買ってきます!」と勢いよく飛び出していった。酒屋のある土合の町までは、往復すれば4時間はかかる。まして、闇夜の山中である。

A君は獲物を携え、必死の形相で小屋に駆け込んだに違いない。だが、その努力は報われなかった。すでに、全員が酔いつぶれていたのだ。

ちなみに筆者は、海外赴任も含めて日程が合わず、白州の岳友会山荘には今回が初参加である。山用具も古いザックと、アフガニスタンに行くときにシンガポールで買った軽登山靴しかない。それでも山仲間はありがたい存在で、毎回、声をかけてくれる。

長い歳月がたって、互いの姿形は変われども絆や紐帯(ちゅうたい)は色あせない。何年も寝食を共にしてきたから、互いの癖も弱みもすごさも知り尽くし、いつまでも程よい距離感があるのかもしれない。

先行組が下山してくる前に、律義な後輩が運んできたおでんの具に手を加えながら、夕食の準備に取り掛かった。まもなく、東京からクルマを飛ばしてきた先輩も合流した。相変わらず豪快に飲む酒のご相伴にあずかると、若かりし時代の山行の数々がよみがえってきた。(ゆあさ ひろし)