「少し違うテーマに挑んで無事エンドマークを打てた。どう読んでもらえるか楽しみです」。ミステリー小説の賞でデビューを飾った柚月裕子さん(53)にとって、新作『ミカエルの鼓動』(文芸春秋)は大きな挑戦だった。最新鋭の手術支援ロボットを駆使する心臓外科医の葛藤と誇りを描いた自身初の本格的な医療小説。謎解きの要素は残しつつ、命とは、そして生きるとはどういうことかをまっすぐに問う。
北海道の大学病院で手術支援ロボット「ミカエル」で難手術を成功させてきた心臓外科医・西條の同僚として、同じ40代でドイツ帰りの天才心臓外科医・真木が加わる。速く正確な手際で従来の開胸式手術を完遂させる真木。その姿に、最新技術で未来の医療を拓(ひら)けると自負する西條は対抗心を燃やす。難病の少年の治療方針をめぐり2人が対立する中、西條を慕う若手医師が突如命を絶つ。「あれは人を救う天使じゃない。偽物だ」-。西條が信頼を置く「ミカエル」に疑問符を突き付けるフリーライターの男が放った言葉を裏付けるように、周囲で不可解な動きが次々出てくる。
心臓手術や医療ロボットの開発現場への取材が迫真の描写を生んだ。「手術で小さい子の心臓を見たときは命の脈動を感じた」と柚月さん。「手術で身体は救える。でも、患者さんが生きる気力を失ってしまったら? 本当に救われるとはどういうことか、という明確な答えの出ない問いをずっと考えていました」
大学病院の闇も描き出す物語を彩るのは、いくつもの「対比」だ。ビジネスと医療の倫理。ロボットを使った最先端手術と従来の開胸式手術。北海道の大自然と人工物の象徴のような大学病院…。ただ、激しく対立する西條と真木も、誰にとっても平等な医療を志す点では変わらない。そんな衝突し合うものが、ときに重なり合う瞬間が丁寧にすくい上げられる。
口数の少ない真木が、西條をあえて呼び止めてこう告げる場面がある。〈あんたはさっき、お前は神か、と言ったが、もちろん違う〉〈俺たちは下僕(げぼく)だ〉と。諦念や卑屈さの表現にも映るせりふが、医療への誠実さを求めてもがく西條が行き着く境地とも重なり、希望の色を帯びてくる。
「人間は昔から雄大な自然と共存しながら生きてきました。私自身、年齢を重ねるにつれ自分の小ささを感じる。自分の力で何かを変えられる、って考えは傲慢なんじゃないかと。でも、たとえそうでも『何とかなるんじゃないか』ともがき、あがき続ける人間の姿は尊い、と思うんです」
週刊誌で約1年にわたり連載された一作。連載完結後、東日本大震災から10年の節目が来た。柚月さんは震災の津波で、岩手県宮古市に暮らしていた父親と義理の母親を亡くしている。
「2人を亡くしてから私は重ならない2つの時間軸の中を生きてきた。岩手の時間と日常の時間です」と話し、こう続ける。「数年前に岩手を訪ねたとき、振り袖姿のお嬢さんたちが歩くのを見たんです。震災時に小学生だった子供が成人を迎えている。重ならなかった2つの時間軸が近づいた気がした」。この世の無常と力強い生の鼓動が同居する今作には、そんな実感もきっと流れ込んでいる。
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ゆづき・ゆうこ 昭和43年、岩手県生まれ。平成20年に『臨床真理』で「このミステリーがすごい!」大賞を受けてデビュー。『検事の本懐』で大藪春彦賞、『孤狼の血』で日本推理作家協会賞。将棋を題材にした『盤上の向日葵』は2018年本屋大賞の第2位に。ほかの著書に『月下のサクラ』など。