台湾陶磁器のルーツは砥部焼 戦前に輸出・技術導入

地元で『砥部ボウル』と呼ばれる茶碗など
地元で『砥部ボウル』と呼ばれる茶碗など

割れにくく丈夫だとして普段づかいの磁器として定評がある愛媛県砥部町の砥部焼が、戦前の台湾で広く流通していたことが分かった。「砥部むかしのくらし館」館長を務める豊島吉博さん(70)の調査で判明。町内に残る窯元で最も古い「梅山窯」の茶碗などが台湾の124カ所で販売されていたことを記す資料が見つかったという。

「砥部むかしのくらし館」館長の豊島吉博さん
「砥部むかしのくらし館」館長の豊島吉博さん

窯元が販売に乗り出す

砥部町教委発行(昭和44年)の「砥部焼の歴史」には、明治18年以後、輸出が拡大したことが記されている。明治中期以降では清国(中国)、蘭印(インドネシア)、インド、セイロン(スリランカ)などの名前が記されているが、本には台湾の地名は出ておらず、具体的な販路といった詳細は不明なままだった。

豊島さんは明治15年創業の「梅山窯」の親戚に当たり、同社4代目の梅野武之助さんが書き残した記録などを整理する作業に今年から取りかかっている。その中で、大正元年に同社が製造だけでなく販売を手掛ける「梅野商会」を設立し、販路を台湾に拡大していたことが分かったという。

昭和3年の台帳には124カ所もの台湾の取引所名が列記されており、さらに、翌4年1月1日付の愛媛県の地元紙「海南新聞」に梅野商会が広告を出していたことも判明。そこには販売所として東京、神戸、大阪、松山と並び台湾も入っていた。

豊島さんは「新聞の広告が見つかり、客観的な裏付けができた。まさか台湾にこんなに多くの取引所があったとは。当時、窯元が販売に乗り出していたこともすごいと思う」と驚いた様子で話した。

豊島さんによると、台湾で販売されていたのは主に「イヨボール(ボウル)」と呼ばれる茶碗や皿など。手で模様や絵を描く商品ではなく、和紙に柿渋を塗って強化した型紙を使って印刷する「ステンシル」技法の商品。白と鮮やかなコバルトブルーで細かい模様が比較的容易に描けることから、輸出品に向いていたという。

日章旗がデザインされた砥部焼の皿
日章旗がデザインされた砥部焼の皿

日本統治で近代化した台湾

台湾は日清戦争後の下関条約(明治28年)により、清国から日本に割譲された。日本統治は昭和20年の敗戦までの約50年間。明治31年、第4代台湾総督に就任した児玉源太郎が民生部門のトップとして起用した後藤新平の手腕で急速な近代化を成し遂げた。道路や鉄道、港湾、上下水道、電気、通信といった公共インフラが整備され、教育面も飛躍的に向上していった。

梅野商会の台湾への販路拡大はちょうどこの時代。砥部むかしのくらし館を訪れた砥部町の岡田洋志副町長は「台湾の人たちの生活レベルが上がるところで、イヨボウルが登場している。ごはんを食べる文化が広まっていたのではないか。磁器は雑菌がつきにくい。衛生面でも適している」と話した。

豊島吉博さん(左)から説明を受ける砥部町の佐川秀紀町長(中央)と岡田洋志副町長
豊島吉博さん(左)から説明を受ける砥部町の佐川秀紀町長(中央)と岡田洋志副町長

台湾陶磁器業界の興隆にも寄与

台湾の陶磁器に関する歴史は、台湾大学芸術史研究所によると、日本統治時代までは明確に文書化されていなかったとした上で、日本によってさまざまな陶磁器の製造技術が導入されたとしている。

特に日常使用の陶磁器の需要に対応するため、砥部焼のステンシル技術が紹介され、台湾でのセラミック需要に拍車がかかり、大量生産の時代が到来したという。また、台湾の陶芸家が砥部焼に特徴的な白磁に青の模様の組み合わせに、緑とピンクを追加したことで人気を博し、これが台湾陶磁器の特徴となったとしており、戦前の砥部焼は販路を台湾に拡大しただけでなく、台湾陶磁器の技術向上にも大きく寄与していたことが分かる。

「もっと砥部焼の販路を広げたいと考えている」という砥部町の佐川秀紀町長は、豊島さんの調査に、「以前から台湾とつながりがあったことが明白になり、大変うれしい。日本以外にも砥部焼を出していく取り組みの第一歩になる。民間が頑張ってくれているのはうれしい」と述べ、台湾との砥部焼を通じた交流に意欲を示した。(村上 栄一)

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