朝鮮戦争にまで翻弄された原爆孤児の戦後

袋町小学校の児童を前に自身の体験を語った友田典弘さん(中央)=10月29日、広島市中区
袋町小学校の児童を前に自身の体験を語った友田典弘さん(中央)=10月29日、広島市中区

9歳で原爆孤児となった後、知人を頼りに渡った韓国で朝鮮戦争も経験した大阪府門真市在住の友田典弘(つねひろ)さん(85)が、母校の広島市立袋町小学校(広島市中区)で5、6年生約80人を前に半生を語った。かつて自宅のあった付近から通学路も歩き、当時の記憶をたどった。改めて友田さんは語る。戦争は起きないようにしてほしい-。

友田典弘さん(前方中央)の体験を聞く袋町小学校の児童たち
友田典弘さん(前方中央)の体験を聞く袋町小学校の児童たち

唯一の生存者として

袋町小の福田忠且(ただかつ)校長(55)によると、母校の児童を前に友田さんが語るのは初めて。「戦争中に一番苦しいと思ったことは」「原爆が投下されたときのことを教えて」「日本に帰ってきてどんなことが大変だったか」など、児童からの質問に一つずつ丁寧に答えながら、友田さんは波乱の半生を語った。

昭和20年8月6日、当時袋町国民学校(現・袋町小)4年生だった友田さんはその日遅刻し、校舎前で6年生に手を引っ張られた。だが、B29爆撃機の音に危険を感じ、その手を振りほどいて校舎の地下室へ。下駄箱前で靴を脱いでいたときに被爆した。

爆心地から約460メートル。友田さんは一命を取り留めたが、校庭にいた2歳下の弟、幸生(ゆきお)さんは即死した。「校庭には、歯だけが白い、真っ黒い遺体が並んでいた」。校庭へ続く階段を上がったところに横たわっていた黒焦げの遺体。履いていた運動靴に「トモダ」と書かれていた。

原爆投下当時、学校にいた児童約70人、教師約90人の計約160人が即死した。生存した児童はわずか3人。そのときの児童で生存しているのは、友田さんだけだ。

児童代表は講演後に「戦争の恐ろしさと奪ったものについて学んだ。これらを大切にし、平和を守っていける人になりたいと思う」との言葉を送った。

袋町国民学校までの通学路だった道をたどる友田典弘さん。当時の景色とは全く変わってしまった=10月29日、広島市中区
袋町国民学校までの通学路だった道をたどる友田典弘さん。当時の景色とは全く変わってしまった=10月29日、広島市中区

波瀾(はらん)万丈の半生

友田さんは洋裁で生計を立てた母のタツヨさんに、弟と不自由なく育てられた。9歳で被爆。父はすでに病死し、母も見つからず、孤児となった。

途方に暮れていたとき、自宅に下宿していた朝鮮半島出身の靴職人だった「金山さん」と再会。故郷に戻る金山さんについて海を渡り、彼の家族のもとに身を寄せた。

かわいがってくれた金山さんがのちに結婚し家を出ると居づらくなり、13歳で世話になった家を出た。市場から市場を歩き、駅や市場で眠ることもあった。

14歳のときに朝鮮戦争が勃発した。近くで爆弾が落ちるなど、戦争の光景をまざまざと見つめる日々。朝鮮戦争の孤児と暮らすようになっていた。

休戦後にパン店で働き始めた頃、母の夢を見て故郷への思いを募らせた。「日本へ帰れるか見通しがつかなかった頃が一番つらかった」。自殺未遂は3度。日本語はほぼ忘れ、日本人と証明するものもなかった。

だが、日本語ができる韓国人女性が広島市役所などに手紙を送り続けてくれるなどして助けてくれた。そうした支援や当時の広島市長らの尽力もあり、24歳で帰国を果たした。

地下室の下駄箱が置かれていた辺りを確認する友田典弘さん
地下室の下駄箱が置かれていた辺りを確認する友田典弘さん

証言が問いかけるもの

帰国後、広島からしばらくして移った大阪で長年、暮らしてきた友田さん。12月で86歳になる。年齢に加え、2年前には胃がんを患い、今度はいつ広島に帰れるか分からないという思いもあった。そんな中で母校での講演にも誘われ、思い出の地も歩くことにしたという。

元安川にかかる平和大橋東詰め付近は、かつて自宅があった場所。すっかり景色は変わったが「あそこに神社、この辺にお寺があって…」と当時の様子を鮮明に覚えている。

通学路途中にある白神社も思い出深い場所だ。この日は秋祭りが開催されていて「弟と一緒に祭りに行った。アメ玉を買ったかな。近くの大きな石に腰掛けて、行き交う電車をよく眺めていた」と、話した。

被爆した地下室で弟・幸生さんの写真を見つめる友田典弘さん
被爆した地下室で弟・幸生さんの写真を見つめる友田典弘さん

福田校長は「子供たちにはどんなことが起きたのかを知ってほしい。友田さんと出会い、生の声を聞いた子供たちが、これからも語り継いでいくことが大切だと思う」と話す。

友田さんは今でも弟のことを語ると、涙が頰を伝う。講演後には、被爆当時の校舎(現・袋町小学校平和資料館)に足を運んだ。下駄箱があった辺りで立ち止まると、弟の写真を鞄から取り出して見つめた。

「戦争は良いことは一つもない。(子供たちへは)戦争が起きないようにしてほしい」。静かな語り口ながらも、壮絶な戦後を生き抜いてきた友田さんの一言一言は、多くのことを問いかけている。(嶋田知加子)

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