日曜に書く

論説顧問・斎藤勉 ドストエフスキー生誕200年

ロシアの作家ドストエフスキー(タス=共同)
ロシアの作家ドストエフスキー(タス=共同)

「ソ連崩壊」を暗示した

35年前の1986年4月、旧ソ連のウクライナで起きた原発史上最悪の「チェルノブイリ事故」。その「チェルノブイリ」には、ロシア語で「苦(にが)よもぎ」の意味がある。

「…松明(たいまつ)のように燃えている大きな星が天から落ちてきて、川という川の3分の1と、その水源の上に落ちた。この星の名は『苦よもぎ』といい、水の3分の1が苦よもぎのように苦くなって、そのために多くの人が死んだ」(新約聖書の最後の『ヨハネの黙示録』第8章)

「世界の終末」を暗示したこのくだりは、実は文豪、ドストエフスキー(1821~81年)が代表作『カラマーゾフの兄弟』の前半のクライマックス、「大審問官」の章の一節で「松明に似た大きな星が…水源の上に落ちて水は苦くなった」との表現で引用している。

作家でロシア専門家の佐藤優氏は「ソ連時代、宗教を禁じられ聖書入手が困難だったロシア人は『大審問官』伝説を通じて黙示録の預言を知っていた。原発事故が起きたことで『チェルノブイリ』という『大きな星』が落ちてきて沢山(たくさん)の人が死ぬという預言が現実となり、大終末が近づいているとの不安が広がった。『大審問官』伝説は、いわばソ連崩壊を暗示する書としても読まれていた」と語る。

亀山郁夫氏「黒い言葉」

今月11日はドストエフスキー生誕200年である。世界各地で記念行事が催されている。佐藤氏は「文豪は、今のコロナ禍もそうだが、社会が暗く不安定な時に好んで読まれる。暗いからこそ需要がある」と指摘する。

ドストエフスキー自身、カラマーゾフが意味する「黒(罰)で塗られた者」そのものの59年の生涯だった感が強い。検閲が苛酷なニコライ1世治下で作家活動を始め、1849年、皇帝の存在を否定する「ユートピア社会主義者」の活動で逮捕、投獄、そして死刑宣告。執行直前に恩赦の勅令で4年間のシベリアの監獄送り。自業自得だが、賭博浸りによる借金地獄、負債返済のための作品執筆…。

ロシア文学者の亀山郁夫氏は今夏、『ドストエフスキー 黒い言葉』(集英社新書)を上梓(じょうし)した。なぜ「黒」か。ロシア南部に広がる肥沃(ひよく)な土壌を「黒い大地」と呼ぶように、「カラマーゾフ3兄弟」の末弟で主人公のアリョーシャに「大地を愛する」と叫ばせたドストエフスキーにとって、実は「黒は豊饒(ほうじょう)の証し」なのだという。亀山氏が『罪と罰』『悪霊』『白痴』『賭博者』などの代表作品群から選んで解説した名言は善悪取り揃(そろ)えてまさに豊饒だ。

『美が世界を救う』『神がなければ、すべては許される』…。

プーチン氏の「罪と罰」

大審問官伝説とは3兄弟の次男、イワンの創作で、その主たるテーゼは「自由と専制」という今の世界がまさに直面している問題だ。独裁者である大審問官が統治する16世紀の南スペインに復活したキリストの再臨と思われる青年が現れ、大審問官は青年に議論を挑む。大審問官は「異端者」を容赦なく「火あぶり刑」にするが、民には現実の「地上のパン」を施し、自分こそが「神の国」をつくったとの絶対の自信を持つ。一方で無言を貫く青年が暗に示した「精神の自由の世界」という「天上のパン」は語気鋭くこき下ろす。この「精神の自由の世界」こそ、ドストエフスキーが帝政ロシアのあるべき姿として思い描く理想社会と二重写しになっていた―と亀山氏は指摘する。

佐藤氏が「大審問官型の指導者」と見るプーチン大統領は、トルストイの『戦争と平和』をトップに自分に最も影響を与えた文学作品10選にドストエフスキー作品は含めていない。さては『罪と罰』がお嫌いか。

プーチン氏は強引な憲法「改悪」で終身独裁者への道を開き、昨年末には大統領経験者の「生涯、刑事・行政上の責任を問われない免責特権保障法案」と「終身上院議員への転身を認める法案」にも署名した。

ドストエフスキーは『罪と罰』の主人公で「自分は特別の人間」だとして金貸しの老女を殺したラスコーリニコフを、最後には自首させてシベリア流刑に処し、罪を償わせている。

プーチン治世下では反政権派の暗殺が相次ぎ、毒殺未遂にあった野党指導者、ナワリヌイ氏は不当にも獄中に繫(つな)がれたままだ。プーチン氏と取り巻きの特権と腐敗も暴露されている。

泉下のドストエフスキーはプーチン一族の歯止めなき「特別扱い」を許せるのだろうか―。(さいとう つとむ)