この本と出会った

『生きられた家経験と象徴 新訂版』 人と建築の豊かな関係 建築家・東大大学院教授 千葉学

「生きられた家」という何とも不思議な言い回しは、建築を学び始めて間もない僕には、当惑するものだった。そもそも「生きる」という言葉に受動態はあるのか、またその受け手が「家」とは一体どういうことなのか。それがよく摑(つか)めず、かといって本を開くこともないままに何年かが過ぎた。

僕が建築を学んでいたのは〈1980年代〉。大学ではフランク・ロイド・ライトやル・コルビュジエの作品をトレースし、模型を作りながら、その空間の美学や革新性を、まるで洗礼のように教えられていた。ライトの大地にへばりつく低い屋根から溢(あふ)れる空間、コルビュジエの彫刻にも近い立体造形の光と影、どれも魅惑的な建築だった。しかし建築界では、それとは正反対の、歴史への回帰を標榜(ひょうぼう)したポストモダニズムが流行し始め、さまざまな様式を纏(まと)った建築が、バブル経済に向かう勢いを後ろ盾に街に出現し始めていた。

モダニズムを超えようともがきつつも、西欧の様式が、まるで記号のように表層に貼(は)り付く建築には共感できぬまま悶々(もんもん)としていたとき、ふとこの本のページを捲(めく)ってみた。それは、目の前の霧が晴れるような、新鮮な驚きに満ちたものだった。「どんな古く醜い家でも、人が住むかぎりは不思議な鼓動を失わないものである。」と始まるその本は、人が住み、手を入れて変わりゆく家が、今度は逆に人に働きかけ、そこに住む人間も変化していく、その相互作用こそ家の本質だというのだ。確かに自分が育った家の記憶も、さまざまなかたちで身体化されている。父が増改築を趣味のように繰り返していたから、変わりゆく家の姿は日常だったし、その度に古びた木に新しい白木が接(つ)がれ、住みこなすうちに馴染(なじ)んでいく色の移ろいは、数々の出来事とともに蘇(よみがえ)る風景だ。「住むことと建てることが同一化される」ことは、すでに身を以(もっ)て体験していたのである。

建築家、東大大学院教授の千葉学氏
建築家、東大大学院教授の千葉学氏

言われてみれば、当たり前のことだ。しかし大学での建築論にも巷(ちまた)の流行にも、この人と家の、手垢(てあか)にまみれた関係が豊かに醸成されていくという視点は抜け落ちていたのだ。僕は晴れやかな気持ちで、建築の設計をしたいと思ったのである。

でもこの指摘は建築家にとっては重い宿題であることに、すぐに思い至った。どんなに醜い建築でも良いのなら、建築家はいらないではないか。その豊かな相互作用のためには、何をどこまで設計すればよいのか。本の中では「場所」という言葉で答えが示唆されているが、簡単ではない。僕がこれまで建築を時に背景として、時に地形のように、あるいは周辺環境との応答に徹して試行錯誤を繰り返してきたのは、この「場所」を炙(あぶ)り出すためだったのだと思う。そして空間の実験や表層の記号に頼ることなく、人と建築が時間をかけて身体的にかかわり合うことを祝福したいという想(おも)いも、いまなお変わらない。それは、こうした日々の営みに宿る人間の力を信じているからだ。(多木浩二著/青土社・2640円)

【プロフィル】千葉学(ちば・まなぶ)

昭和35年、東京都生まれ。東大大学院修了後、日本設計などを経て平成13年、千葉学建築計画事務所を設立。主な作品に「工学院大学125周年記念総合教育棟」「諫早市こどもの城」など。

『生きられた家』は、思想家が「家」に投影される人の営みなどを考察した書。初版は昭和51年。青土社の新訂版は品薄だが、オンデマンド版でも購入できる。