勇者の物語~「虎番疾風録」番外編~田所龍一(343)

主砲の決断 お父さんの分まで打つから

「引退」を表明する掛布。(手前は見掛球団社長、奥は高田本部長)=昭和63年9月14日、大阪・梅田のホテル阪神
「引退」を表明する掛布。(手前は見掛球団社長、奥は高田本部長)=昭和63年9月14日、大阪・梅田のホテル阪神

■勇者の物語(342)

南海・杉浦監督のことを書く前に、このことを書かねばならない。

南海ホークスのダイエーへの身売りが決まった翌日の9月14日、阪神の主砲・掛布雅之(33)の「引退会見」が行われた。筆者にとって同い年の掛布は「選手と記者」の関係を飛び越え、「親友」といえる男だった。

大阪・梅田のホテル阪神。多くの報道陣の前に現れた掛布の顔には、野球人生を燃え尽くした―という満足感はなかった。まるで余計者を追い出すかのような扱いに、悔しさと寂しさを胸に隠した…それは「無念」の表情だった。

「練習のタマなら打てるし捕れるが、試合では打てないし守れない」

痛めた左ヒザが思うように回復せず2軍暮らしが続いた。そして9月7日、球団に「引退」を申し入れた。

昭和60年、栄光の「日本一」に輝いて以降、掛布はケガに悩まされ続けた。61年4月の中日戦で左手首に死球を受けて骨折。5月に復帰したが、甲子園球場での巨人戦でイレギュラーした打球が右肩に当たり戦列離脱。そして8月にはヤクルト戦で再び守備中に左手親指を骨折。

62年は腰痛に苦しんだ。56年の左ヒザ半月板損傷の影響で左右の足のバランスが崩れ、慢性の腰痛になっていたのだ。63年のヒザ痛もその影響だった。

筆者は何度か大阪・豊中市の自宅を訪ねた。いつもはソファに座って話す掛布が「すまん。横になってもいいか?」という。「そんなに腰が痛い?」「左足の靴下は女房に履かせてもらってるよ」「無理せず治療に専念したらいいやん」「そうもいかん。去年もその前も働けていない。オレにはもう、そんな時間はないんだよ」「四番だから?」「……」。最後の質問には掛布は答えなかった。

後で知ったことだが、掛布が引退を決めたのは、当時、幼稚園に通っていた長男・啓悟のひと言だったという。

安紀子夫人も何度も「引退」を勧めた。かたくなに首を縦に振らない掛布。いつも喧嘩になった。そんなある日、啓悟がプラスチックでできたバットを構えてこう言った。

「お父さんの分までボクが打つから」

掛布の肩からスーッと重荷が取れた瞬間だった。もっといい顔で引退させてあげたかった―といまでも思う。(敬称略)