話の肖像画

横浜高校野球部元監督・渡辺元智(76)(1) 高い目標が生んだ「平成の怪物」

横浜高校時代の松坂大輔投手(左)と=平成10年8月、甲子園球場
横浜高校時代の松坂大輔投手(左)と=平成10年8月、甲子園球場

「話の肖像画」特集へ

《教え子の松坂大輔投手が先月19日、現役最後の登板を果たした。日米通算170勝の「平成の怪物」は、満身創痍(そうい)の体で全力投球を披露した》


テレビで観戦しましたが、最後に登板することができて本当によかった。投げられる状態ではないと聞いていましたので。高校時代にお世話になっていた横浜市内の整形外科医院で、松坂を見かけたことがあります。帽子を深くかぶって気配を消していましたが、私には分かりました。シーズン中なのにチームへの貢献はおろか、練習すらできず、復活のきっかけを求めて旧知の病院をめぐる日々だったのでしょう。相当に苦しんでいたのではないか、と思います。

松坂の性格はよく知っています。野球に育てられ、ファンに育てられたと思って、たとえ意のままにならない投球でも、最後の姿をみなさんに見てもらいたいと決意したのでしょう。わずか5球でしたが、その表情には高校時代のよく知る松坂と、プロ入りして大リーグまで行った私の知らない松坂が、映画のフラッシュバックのように次々と表れました。「ご苦労さま」と簡単にはいえません。むしろ感謝の気持ちに包まれました。


《松坂がエースだった平成10年、横浜高校は甲子園で春夏連覇を達成。チームは公式戦44勝無敗だった》


中学時代の松坂を初めてみたのは江戸川河川敷のグラウンド。投手としてはボールはめっぽう速いが、とにかくコントロールが悪くて「大丈夫かな」と思ったことを覚えています。打撃はすばらしかったので「打者で」とも思ったのですが、小倉(清一郎氏、当時の野球部長)と相談し、投手で育てることを決めました。

入学当初はとにかく下半身を鍛えました。外野の両翼を往復するようにフライを捕球させる「アメリカンノック」や近くの砂浜でのランニング、さらに追加で山道をマウンテンバイクで登らせたり。練習は他の投手たちよりはるかに厳しく、よくついてきたな、と思いますね。

野球に対する取り組み方が豹変(ひょうへん)したのが、2年生の夏の県大会です。優勝候補のエースとして勝ち進みましたが、準決勝で自分の暴投で敗れ、3年生の甲子園出場の夢が消えた。先輩に申し訳ないと号泣した松坂は、目の色を変えて練習するようになったのです。

初めて「平成の怪物」と書かれたのは平成9年秋の明治神宮野球大会のとき。それまでその年代は、九州大会で優勝した沖縄水産(沖水)の新垣渚投手がナンバーワンといわれていました。その神宮大会の決勝で沖水と対戦したのですが、なぜか新垣投手は先発せず、松坂は完投して横浜が優勝。そのときの優勝記事で、「平成の怪物」として取り上げてくれたのです。あの試合、新垣投手が先発して沖水が勝っていたら、松坂は怪物にはなっていなかったかもしれません。

松坂はその後、全国の高校から目標とされながら春の選抜大会を制し、夏の大会はPL学園や明徳義塾との激闘を経て決勝戦の無安打無得点と怪物伝説を築いていきます。入学前に投手としてはどうかと思っていた松坂が、あの神宮大会決勝で分水嶺(れい)を迎え、運命が大きく変わった。横浜高校には「目標がその日その日を支配する」という言葉があります。暴投の敗戦から高い目標を掲げ、日々やるべきことを重ねていった松坂は、怪物になるべき運命も手繰り寄せていったのかもしれません。(聞き手 大野正利)

【プロフィル】渡辺元智(わたなべ・もとのり)

昭和19年、神奈川県生まれ。旧名・元(はじめ)。横浜高校では外野手、神奈川大中退。40年から母校のコーチを務め、43年に監督就任。48年の春の選抜大会で初出場初優勝。その後も55年に夏、平成10年に春夏連覇など優勝は春3回、夏2回。甲子園では通算51勝を挙げ、平成27年夏の神奈川大会を最後に勇退した。

(2)につづく