ビブリオエッセー

耳傾けるべき語りの文学 「苦海浄土―わが水俣病」石牟礼道子(講談社文庫)

米国人写真家、ユージン・スミスが妻とともに水俣へ入ったのは50年前の1971年。水俣病の取材と撮影をするためだった。患者や家族の苦しみと闘いに寄り添い、記録したその写真集は「ミナマタ」の名とともに世界に知られた。先日、ユージンをジョニー・デップが演じた映画『MINAMATA―ミナマタ―』を見て、『苦海浄土』を読み返した。

この本は3部からなる長大な作品の第1部にあたり、1969年に出版された。「椿の海」から「昭和四十三年」まで7章にわたり、患者や家族らの聞き書きを中心に、医師の報告書や観察記録、患者家族の請願書などもはさみ、水俣病をめぐる経過が記されていく。

石牟礼道子は天草で生まれ、水俣で育った。「不知火」という美しい名を持つ母なる海が汚されてゆくのを黙って見てはいられなかっただろう。漁民たちの慟哭を。工場排水は体をむしばんでも人と故郷を思う心は揺るがない。

「うちは、こげん体になってしもうてから、いっそうじいちゃん(夫のこと)がもぞか(いとしい)とばい」「ゆりからみれば、この世もあの世も闇にちがいなか(中略)とうちゃん、どこに在ると? ゆりが魂は」。方言の語りがどれも心から離れない。

聞き書きではあるが、「あの人が心の中で言っていることを文字にするとこうなるんだ」と著者の想像力で書かれたものだ。

高度成長のひずみが生んだ公害という言葉は若い世代には縁遠いものかもしれない。しかし今も風評被害や、故郷に住めず避難先でいわれなき差別を受ける事例には事欠かない。少しの想像力を働かせれば、隠された事実への関心や当事者の痛みを思うことはできるはずだ。

この本はそのことを静かに語りかける。

大阪府羽曳野市 西村真千子(57)

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