歴史の交差点

孝明天皇の死因 神田外語大学客員教授 山内昌之 

山内昌之氏
山内昌之氏

歴史学の研究では十二分に論じられていないテーマが多い。幕末の孝明天皇の死をめぐる謎もその一つであろう。大きく言えば、病死か毒殺かということだ。毒殺説はひとまずおいておく。病死説とは、天皇が痘瘡(とうそう)とくに悪質な紫斑性痘瘡ないし出血性膿疱(のうほう)性痘瘡によって死亡したという説である。この二つとも出血性痘瘡と呼ばれるものだ。

ところが最近、医学者の橋本博雄氏は「孝明天皇と痘瘡」なる論文で、天皇が通常型痘瘡の症状を示しており、痘瘡が死亡原因とは考えにくいという見解を示した(日本医史学会関西支部『医譚』通巻129号、令和2年12月)。橋本氏は典医や女官の日記にも依拠しながら、孝明天皇が慶応2年12月12日に発病、24日から結痂(けっか)(かさぶたができる)期に入ると予想される回復ぶりだったと指摘する。

前発疹期から12日で結痂期になるのは、通常型痘瘡の経過とほぼ一致しており、病状も回復途上にあったとされる。食も19日には「湯之下御一碗」だったのが、23日には片栗粉菓子・おひたし・干し飯1碗(わん)・もろこし6粒などになり、食欲も回復していった。孝明天皇は23日まで通常型痘瘡の経過をたどっていたのに、24日に急に容体が変化し、25日には死亡した。

ある史料には、「御九穴より御脱血」とあるので、主として粘膜から出血して死に至る痘瘡もあるのかと、橋本氏は問いを進める。世界保健機関(WHO)の分類に従って、5種類のうち4種類は天皇の症状に該当しないと証明した。残された出血型は早期と後期に区分されるが、早期出血型は電撃型痘瘡というくらいで発熱後6日くらいに突如死ぬので、天皇の症状とは違う。後期出血型では発疹出現後も頭痛などの激しい症状が治まらず、発疹が膿疱まで進んだ天皇の症状は後期出血型と異なるというのだ。

橋本氏はニュージーランドの医学者の説にも依拠しながら、天皇の痘瘡が予後良好の通常型で痘疹から出血した可能性があることを紹介する。その後の症状は通常型の通りに進み、紫斑も自然に消えてしまう。いずれにせよ、天皇が日を追って回復していく様子は諸種の日記にも書かれている。祈禱(きとう)にあたった湛海(たんかい)僧正の日記では、20日に天皇の具合がだいぶ回復し、30両の謝礼が「下しおかれ」た。21日の典医日記には、「もう峠は越した。後はご快復を待つばかり」とあったのに、24日夕から容体が急変し、25日に急逝した。

天皇を治療した15人の典医でもない人物は死因を黒疱瘡(出血性膿疱性痘瘡)に求めたが、これだと発疹発現後も激しい症状が続くはずなのに、天皇にはその症状がない。とすれば、痘瘡が直接に死をもたらしたという説にも疑問が残ることになる。だからといって、すぐ実証的に毒殺説有力とはならない。

橋本氏も、天皇が通常型痘瘡であり治癒に向かっていた点までを禁欲的に説明したのである。医学の立場から冷静な症状分析を進めることで、今後の歴史学研究にも刺激を与えられた橋本氏に敬意を表しておきたい。 (やまうち まさゆき)