朝晴れエッセー

幼いヒロインの声・10月17日

三河(愛知県東部)と遠州(静岡県西部)には農村歌舞伎の伝統がある。

私の生まれ育った愛知県八名郡賀茂村(現豊橋市)にもその伝統があった。神社の境内には芝居小屋もあった。

70年前の秋祭り、私は歌舞伎見物に出かけた。別に古典芸能に興味があったわけではない。小学校の同級生の女児が出演したからだ。舞台に屋根はあったが、観客席は野天だった。落葉樹の落ち葉も舞っていた。

やがて同級生が登場した。その衣装は巡礼姿だった。「巡礼にご報謝」というせりふだけは今も耳の底に残っている。

私がその演目が『傾城(けいせい)阿波の鳴門』という作品の、生き別れになった母子が再会する場面だと知ったのは後日のことだった。

同級生の演技には万雷の拍手がわき起こった。それが名演技だったからだけではない。その同級生の父親は太平洋戦争で戦死していた。家庭は母一人子一人だった。

観客はその現実と虚構の世界を重ね合わせたのだ。私の目にも涙があふれた。空を見上げると満天の星だった。

私は京都市内の大学で日本文学を学ぶために故郷を去った。静岡県内の大学の教壇に立ったために故郷に帰ることもなかった。小学校の同級生に会う機会もなかった。

しかし、教育現場を離れた今、時に郷愁を感じることもある。それを呼び起こしてくれるのはあの幼いヒロインの甲高い声だ。


安藤勝志(79) 静岡市葵区

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