日曜に書く

論説委員・中本哲也 柳家小三治さんをしのぶ

噺(はなし)家の柳家小三治さんが亡くなった。

火曜日(12日)の産経抄に触発されて、「もひとつ ま・く・ら」(講談社文庫)の「笑子の墓」を、久しぶりに読み返した。ちょっと泣いた。

寄席や落語会に通い詰めるような通ではないけれど、落語好きにとって喪失感は大きい。

盛岡のそば屋寄席

「小三治が岩手に来るぞ」

支局長から声をかけられたのは、盛岡支局に勤務していた平成11年の暮れに近い時季だと思うけど、年が明けてからだったかもしれない。

盛岡市内のそば屋と安比高原のスキー場で、小三治一門の落語会が開かれるという、耳よりな情報だった。

早速チケットを買い、「東家(あずまや)」というそば屋の主人(社長か?)に取材して、岩手県版の記事にした。デスク(次長)の特権を行使して、催し物としては破格の県版トップの扱いにした。今から思えば、電話取材でいいから小三治さんに話を聞いときゃよかったと、悔やまれる。

記事は手元にないけど、書き出しは記憶している。《えー、おなじみの柳家小三治師匠が岩手にやってまいります》

十中八九、いや九分九厘、小三治さんの目には留まってないだろうけど、東家の主人は「面白かった」とほめてくれた。

落語会当日。1階でそばを食べた後に2階で落語を楽しむという趣向である。小三治さんの演目は覚えていないけど、花魁(おいらん)と若旦那が登場する、筆者には馴染(なじ)みのない噺だった。「山崎屋」だったかもしれない。

筆者の盛岡勤務は1年限りだったが、そば屋寄席とスキー寄席は長く続き、今年2月の安比スキー寄席にも小三治さんは出演したという。

今さら、とは思うけど、「小三治さん」はどうもすわりが良くない。噺家(落語家)の高座名は敬称、尊称でもあると思うので、ここからは「さん付け」をやめよう。

「死神」と「初天神」

小三治の「死神」をテレビで見たのは、いつだったか。とにかく、強烈な印象が今も焼き付いている。

三遊亭圓生が死んだ昭和54年より、少し後だと思う。やっぱりテレビで見た圓生の「死神」を思い出しながら「圓生とは全然違うのに、圓生とおんなじくらい、すごい」。素人の分際で、こんな風に思った。

圓生と小三治の「死神」は、筆者の中で何十年も、落語の最高位に君臨してきた。「小三治名席」(講談社+α文庫)では大トリの位置に置かれているので、玄人筋でも、小三治の「死神」は最高位なのだろう。

小三治でもう一席、となると迷ってしまう。「居残り佐平治」「芝浜」。いいに決まってる。人のいい泥棒の噺(「夏どろ」か?)。笑いが止まらない。悩んだ末に、「初天神」を挙げることにした。

「初笑い東西寄席」といったテレビ番組で、新宿末廣亭から生中継で小三治の「初天神」を見る。「いい正月だ」と思った年が、何度かあった。

「初天神」で小三治に並ぶ噺家を筆者は知らない、想像もできない。「死神」で圓生に小三治が並んだように「全然違うけど、こいつの『初天神』もすごい」という噺家がいたら教えてほしい、出てきてほしい。

人間国宝の後継者

小三治の死去で、落語界に存命の人間国宝はいなくなった。かつて、柳家小さん(先代)と桂米朝が並び立ったように、東西の落語界から一人ずつ、人間国宝に認定されるのが望ましいと、筆者は思う。

問題は、誰か一人を選ぶことであろう。小さん、米朝が人間国宝になった時は、並ぶ者がいなかった。小三治が人間国宝に認定されたのは、立川談志の死後である。談志存命中は、選べなかったのではなかろうか。

米朝亡き後、上方から人間国宝の後釜が出ないのも、ふさわしい人材がいないのではなく、1人に絞れないからだと推察する。小三治亡き後の東京も、難しそうだ。

たとえば、小三治から落語協会会長を継いだ柳亭市馬を推すとしよう。同世代から上には「談志」がうじゃうじゃいるだろう。上の世代から一人を選ぼうとしても、似たようなものだ。思い切って、春風亭一之輔はどうだ、とも思うけど、そうもいかないだろう。

落語界に人間国宝はいた方がいい。でも妙案がない。大家さんかご隠居さんに、知恵を借りようか。(なかもと てつや)

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