書評

『ヒトはなぜ「がん」になるのか 進化が生んだ怪物』キャット・アーニー著、矢野真千子訳 遺伝子のカオス 科学の苦闘

『ヒトはなぜ「がん」になるのか 進化が生んだ怪物』
『ヒトはなぜ「がん」になるのか 進化が生んだ怪物』

今年は、米国のニクソン大統領(当時)ががん対策法に署名し、「がんとの戦争」を宣言してから50年に当たる。しかし、半世紀にわたって約10兆円が投じられてきた結果は、とうてい投資に見合うものとはいいがたい。もちろん部分的な成功はあったが、現在もがんは多くの国で主要な死因であり続けている。

なぜかくもがんの治療は難しいのか、他の病気との違いは何なのか。本書は、がんとの苦闘を続けてきた現代科学の、最新の知見を描き出した一冊だ。

現代のがん細胞観を一言で言うなら、「進化する怪物」ということになるだろう。細胞は、分裂するたびにDNAを複製するが、その際にコピーミスが生じる。ミスはたいていマイナスに働くが、まれに細胞分裂の制御が外れ、増殖しやすくなるような変化が起こる。こうした変化が積み重なっていくと、ついに無秩序に増殖する怪物、すなわちがん細胞が生まれるのだ。

これは、生物が世代ごとに少しずつ変異を重ね、環境に適合したものだけが生き残っていく過程、すなわち生物の進化とそっくり同じだ。一直線に1つのゴールを目指すような変化ではなく、ランダムな試行錯誤を繰り返しながら、次々に分岐して増え続ける。がんとは単一の「品種」ではなく、さまざまに変異を重ねた細胞たちの「生態系」であるというのが、現代がん科学の到達地点だ。

であればこそ、抗がん剤でがん細胞をたたいても、やがて耐性を持ったものが現れ、再度増殖し始める。われわれが相手にしているのは、こうすればこうなると予測のつく敵ではなく、とらえどころのない遺伝子のカオスなのだ。

本書の最後では、がん細胞が進化することを前提とした新たながん治療(あるいは付き合い方)が提案される。従来の、とにかくがんへの攻撃一辺倒という考え方とは一線を画するものであり、どの程度妥当なものかも今はまだ分からない。だが、同じ手法で高額な抗がん剤を作り、巨額の利益を上げ続ける製薬企業は、著者の批判と提言に謙虚に耳を傾けるべきだろう。

がん科学の現況を広くとらえ、分かりやすく伝える著者の高度なライティング技術にもうならされる。(河出書房新社・2475円)

評・佐藤健太郎(サイエンスライター)

会員限定記事会員サービス詳細