話の肖像画

元ソニーCEO、クオンタムリープ会長・出井伸之(83)(13) 任天堂との交渉決裂で誕生したPS

プレイステーション2の発売日前日の夜。翌朝の開店に向けて店の前には約500人もの行列ができた=平成12年3月、大阪市内
プレイステーション2の発売日前日の夜。翌朝の開店に向けて店の前には約500人もの行列ができた=平成12年3月、大阪市内

《平成の時代になると、家庭用ゲーム機の市場が急拡大する。家電メーカーが相次いで参入したためで、ソニーもその一つだった》


ソニーは任天堂と平成2年に、共同でCD―ROMを使った統一フォーマットの新しいゲーム機を作ることで合意していました。両社で共同開発を進め、1号機も作りました。

3年6月に予定していた記者発表の打ち合わせのため、僕はその数日前、広報担当役員として、京都の任天堂本社に行くことになっていました。なんだか嫌な予感がして、開発責任者だった久夛良木(くたらぎ)健さんに電話して「一緒に京都に行こう」と誘ったのです。

予感は的中しました。京都に着くと、署名済みの契約書の現物が手元にあるにもかかわらず、任天堂の山内溥社長から突然、「発表しない」と言われたのです。

延々3時間ぐらい話し合いましたが、折り合うことはできませんでした。山内さんからは「ものづくりの会社がソフトを作れるわけがない」というような話を聞かされました。

交渉をあきらめ、東海道新幹線で東京に戻る間、久夛良木さんと「山内さんに言われたことを全部メモに残して、ソニーはその真逆のことをやろう」と誓いました。

その後、ソニーは経営会議で、ゲーム機の開発を続けるかどうか検討しました。

当時の国内ゲーム市場は「ファミリーコンピュータ」や「ゲームボーイ」などのゲーム機がヒットし、専用ゲームソフトを売り続けるビジネスをしていた任天堂の天下でした。ソニーにとって、その中に割って入っていくことはチャレンジでした。それでも、新しい事業を創ろうと、社長の大賀典雄さんがゴーサインを出したのです。

久夛良木さんは任天堂に裏切られるという経験を原動力に、ソニーの半導体技術を使い、独自のゲーム機「プレイステーション(PS)」を作ります。もし、任天堂との決裂がなかったら、今ごろどうなっていたでしょうね。