【本郷和人の日本史ナナメ読み】異形の古文書㊦「古い人」だった後醍醐天皇(1/3ページ) - 産経ニュース

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本郷和人の日本史ナナメ読み

異形の古文書㊦「古い人」だった後醍醐天皇

醍醐天皇像(模本、東大史料編纂所蔵)
醍醐天皇像(模本、東大史料編纂所蔵)

前回は後醍醐天皇が出雲大社に「しかるべき剣があったら、いただきたい」という綸旨(りんじ)を発給した、ということを記しました。綸旨の作成者は蔵人頭(くろうどのとう)の千種忠顕。ところが書かれている筆跡を鑑定してみると、紛れもなく後醍醐天皇の文字。つまり天皇は自身が忠顕になりきって、綸旨を書いている、という話でした。

なぜ、こんな訳の分からない事態が起きているのか。一つには天皇が滞在していたのが伯耆(ほうき)の船上山で、そば近くに肝心の忠顕がいなかった、また、忠顕に代わることのできる近臣もいなかった、ということがあります。でも、それではまだ十分な答えになっていない。なぜなら、ぼくたちの感覚に従うならば、もし意思を伝達したいなら、天皇があくまでも天皇として、手紙を書けばいいじゃないか、ということになる。古文書学的にいうなら、奉書を作成するのを諦めて、直状(じきじょう)を書けばいいじゃないか、ということです。それをしなかった理由について考えていない。

天皇が出雲大社に対して手紙を書かなかった。それはやはり、当時の上下関係にこだわったからではないでしょうか。相手が身分秩序の上位者、たとえば皇族などであれば、天皇は手紙をしたためた。けれども、出雲大社では天皇という尊い存在と釣り合いが取れない。だから綸旨という文書様式を採用する必要があった。そのために天皇は、千種忠顕になりきり、わざわざ忠顕の花押(サイン)まで偽造して、文書を作成した。

それからどうしても身分にこだわりたいなら、忠顕ではない誰かに書かせればよかったのに、ということも可能です。いかに船上山の仮住まいといっても、天皇が生活する周囲には、文字が書ける誰かはいたことでしょう。けれども、天皇にしてみれば、綸旨の書き手は、蔵人か弁官でなければならなかった。他の誰か、ということは認められなかったのです。