子供から見た「昭和」の魅力 西舘好子さん著『「かもじや」のよしこちゃん』

日本ららばい協会の西舘好子理事長=7日、東京・大手町(寺河内美奈撮影)
日本ららばい協会の西舘好子理事長=7日、東京・大手町(寺河内美奈撮影)

東京・浅草界隈(かいわい)で育った「日本ららばい協会」理事長の西舘好子(にしだて・よしこ)さん(81)の新刊『「かもじや」のよしこちゃん-忘れられた戦後浅草界隈』(藤原書店)が話題を呼んでいる。敗戦後の貧しさの中でも元気を失わなかった子供たちと「昭和」の世相が下町風情とともに甦(よみがえ)る。

タイトルの「かもじや」は西舘さんの父方代々の家業。かもじは日本髪を結うときに使う部分鬘(かつら)や付け毛のことで、それを扱う職人をかもじやと呼んだ。3代目の父親は生粋の江戸っ子。浅草橋の自宅兼仕事場と、少し離れた浅草・田原町にも仕事場を持っていた。〝父親っ子〟だった西舘さんが浅草の仕事場に泊まりに行くと、父親がよく盛り場に遊びに連れていってくれた、という。

「映画や女剣劇、喜劇にストリップ…浅草には何でもある。見せ物小屋には大蛇が寝ていたり、鶏(にわとり)の首にかみついてみたり、ろくろ首なんかもありましたねぇ。どこかインチキっぽく、どこかあかぬけないんだけど、あのころの浅草は確かに東京の盛り場の中心だったと思いますね」

父の顧客には人気芸人も多かった。「兵隊落語」で人気を博した落語家でテレビでも活躍した柳家金語楼(きんごろう)は、禿頭(とくとう)に少し残った〝スダレ〟髪がトレードマーク。その髪は西舘さんの父親がつくるかもじだった。「金語楼さんは必ず夜中にこっそりいらっしゃる。名前を呼ぶときも(筆名の)『有崎さん』。お客さんに見せるいつもの笑顔はなくて、なぜか、むっつりしたお顔をしてらした」

喜劇王のエノケン(榎本健一)や、女優の山田五十鈴、新内節(しんないぶし)の名人、岡本文弥らも店や街にやってきた。〝浅草育ち〟の渥美清らと、浅草で一緒に食事を楽しんだエピソードもつづられている。

戦後間もなく、疎開先の福島県の小名浜から東京へ戻り、小学校に通い始める。そのころの学校風景も興味深い。

「アメリカからの救援物資(ララ物資)がやって来て、給食のコッペパンや脱脂粉乳になった。当時『国語ローマ字化』の動きがあったのですが、強硬に反対したのが私の小学校の校長先生でした」

浅草界隈には、花柳界で仕事をする親を持つ子供や、母子家庭の子供もいたが、「そんなことで、いじめたり、仲間はずれにはしない。いじめられたらいじめ返すだけ。陰湿なことはなかったですよ」。

ただ、西舘さんは「懐かしさ」からこの本を書いたわけではない。きっかけは10年前の東日本大震災の被災地で見た「子供たちの明るさや元気いっぱいに走り回る姿」だったという。

「その姿を見て、私たちの子供時代だって、戦争に負けて悲惨な目に遭いながら、いつも『青空を見て』生きていたなって思い出したのです。時代は変わっても子供は変わらない。いつも、元気いっぱいに『駆けている』。そんな、子供の目から見た『昭和』を書いてみたかったのですよ」(喜多由浩)

にしだて・よしこ 昭和15年、当時の東京市浅草区出身。井上ひさし氏と結婚、3女をもうける(その後離婚)。平成12年、日本子守唄協会(現・日本ららばい協会)を設立、理事長として、虐待やDV(家庭内暴力)などに取り組む。著者に『うたってよ子守唄』など。

会員限定記事会員サービス詳細