書評

『ユドルフォ城の怪奇 上・下』 ゴシックの大作 待望の邦訳

理性の時代といわれる18世紀のイギリスは、ジャーナリズムと小説(ノヴェル)を生んだ。ノンフィクションのジャーナリズムに対し、ノヴェルはフィクションでありながらリアリズムを旨とし、現実に起こりそうな出来事を写実的に描く。これに対し、世紀の後半になると、現実に縛られずに想像力を働かせることでフィクションの持つ可能性を広げようする動きが起こり、超常現象や怪奇を特徴とするゴシック・ロマンスが誕生する。文学史上、長らくあだ花として扱われてきたゴシック・ロマンスだが、近年はファンタジーやホラーなどのエンターテインメントの先駆的なジャンルとして見直されつつある。

アン・ラドクリフの『ユドルフォ城の怪奇』は、数あるゴシック・ロマンスの中で最も上質なエンターテインメントを提供してくれる。ヒロインのエミリーは、恋人ヴァランクールから引き離され、彼女の相続財産をねらうモントーニの居城に幽閉されて、さまざまな恐怖体験をする。だがそこに亡霊や怪物は出現しない。「次々に生じる謎めいた状況」が生む「サスペンス」(訳者解題より)で読者をひきつけるこの物語は、ミステリーの原点といえる作品なのである。百年後の「シャーロック・ホームズ」シリーズさながら、結末に至って鮮やかに謎が解き明かされる。とても長いが読み始めるととまらなくなる。

本書のパロディーとして書かれたのがジェイン・オースティンのノヴェル『ノーサンガー・アビー』だ。『ユドルフォ城の怪奇』を愛読するヒロインのキャサリンは、立派なお屋敷に招かれて胸をときめかせる。当主の奥方が亡くなっていると知り、当主に殺されたのではないか、いや実は生きていてどこかに監禁されているのかもしれない、などとゴシック・ロマンス的な妄想を膨らませる。こっそり屋敷を探検していると当主の息子で、憧れていたヘンリーに見つかってしまい窮地に立たされる。作中には頻繁に『ユドルフォ城の怪奇』への言及があり、本書を読むと、ラブコメディーとしての『ノーサンガー・アビー』が持つ諷刺(ふうし)の利いたおかしさがよりはっきりしてくる。本邦初訳の本書はオースティン・ファンにとっても待望の書だ。(アン・ラドクリフ著、三馬志伸(みんま・しのぶ)訳/作品社・各3960円)

評・道家英穂(どうけ・ひでお)(専修大教授)