【書評】『謎ときサリンジャー 「自殺」したのは誰なのか』竹内康浩、朴舜起著 死者といかに出会い直すか  - 産経ニュース

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書評

『謎ときサリンジャー 「自殺」したのは誰なのか』竹内康浩、朴舜起著 死者といかに出会い直すか 

米国の作家J・D・サリンジャーは死に取り憑(つ)かれている。本書はこの主題と向き合い、探偵小説のごとく精緻に探究してみせる。副題にあげられる謎「『自殺』したのは誰なのか?」は、サリンジャーの短編集『ナイン・ストーリーズ』(1953年)冒頭を飾る作品「バナナフィッシュにうってつけの日」を出発点にする。

主人公シーモア・グラスと妻ミュリエルの新婚旅行の一日を描く物語。片やミュリエルはホテルの一室で母親との電話に耽(ふけ)り、片やシーモアは海辺で少女シビルとの会話に耽る。そこでシーモアは「バナナフィッシュ」についてシビルに物語る。バナナどっさりのバナナ穴に入り、バナナを貪(むさぼ)り、バナナ熱で死するバナナフィッシュ。シーモアはその後、妻が眠るホテルの一室に戻り、拳銃で右のこめかみを撃ち抜き、物語は突如幕を下ろす。

本書は最後の場面におけるシーモアの死について、しかしこれは本当に自殺だったのか? とあらためて問い直すのだ。ここで、次男バディーの存在が鍵となる。兄シーモアの死後、この世に残された「バディーは体の半分が凹(へこ)んだ存在として、足を引きずるようにして生きていかねばならない」運命にあった。

本書の射程はサリンジャー文学全般におよぶ。序章から全4章にわたり一連の「グラス家のサーガ」作品、『ナイン・ストーリーズ』末尾を飾る作品「テディ」および『ライ麦畑でつかまえて』(51年)も入念に咀嚼(そしゃく)する。その筆致は、合理や論理にとらわれ「因果の囚人」として生きざるをえない人間像を喝破し、松尾芭蕉の俳句、阿波研造の禅弓術、8月死去した精神病理学者の木村敏(びん)を経由して「生き残ってしまった者」が死者といかに「出会い直せるか」をも問い続ける。だが、われわれもみな少なからず、この世に残されたバディーのように醜く凹んだ体をかかえ、重く足を引きずるように生きていかねばならない「呪い」に縛られているだろう。サリンジャー作品未読の者も、長年読み続けてきた玄人も、本書をその道標の一つに、サリンジャー文学の仄(ほの)暗い深淵(しんえん)にあらためて誘われよう。こんにちほど、その言葉に耳をすますにうってつけの時代はない。(新潮社・1650円)

評・小泉由美子(慶応大非常勤講師)