江戸時代の「孝子・正助」の新資料発見 福岡・宗像(1/2ページ) - 産経ニュース

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江戸時代の「孝子・正助」の新資料発見 福岡・宗像

「正助ふるさと村」の正助ブロンズ像と10代目の武丸正昭さん
「正助ふるさと村」の正助ブロンズ像と10代目の武丸正昭さん

江戸時代、親孝行の逸話で知られた筑前国宗像郡武丸村(現福岡県宗像市武丸)の武丸正助(たけまる・しょうすけ)について伝える新たな資料「孝子正助百年忌細録 全」が同県内で見つかった。江戸末期に開催された正助没後百年法要の概要をまとめた記録で、福岡藩を挙げて催し、参拝者は8万人以上に上ったと書かれている。正助の家族愛にあふれる精神は、武丸地区の交流施設「正助ふるさと村」を中心に今も受け継がれている。

正助百年忌の新資料

宗像市史などによると、正助は江戸初期、現在の宗像市東部に広がる農村地帯の武丸地区に、貧しい農民の子として生まれた。父には田畑がなく、農業の手伝いなどをしながら親子3人で暮らし、正助は、左党の父のため酒を買うのを楽しみにしていたという。その父が「中風」で倒れて半身不随になったため介抱しながら、母親にも孝行を尽くしたと伝わる。疫病がはやった際には、わが身の危険を顧みず病人の看護に努めた。正助の博愛は、牛馬に及び、数々の逸話が伝承されている。

正助資料館に保存されている武丸正助の木像
正助資料館に保存されている武丸正助の木像

正助の評判は郡奉行、福岡藩に伝わり、藩は正助を呼び出して「孝子」であることを確認。年貢を免除したほか「武丸」の姓を授けたという。

正助が亡くなった後も、幕府が全国の「孝子」を集めて編集した「孝義録」で詳しく紹介したため、正助の墓には全国から多くの人が参拝し、観光地のようになったという。

今回の「孝子正助百年忌細録 全」は、同県筑紫野市の医師が福岡市内の古書店で見つけた。安政3(1856)年に、福岡城下の寺で開催された正助百年忌法要の概要をまとめたもので、正助への福岡藩の対応などを記述。法要にあたって、郡奉行など福岡藩の役人たちが1~3両の香典を包み、藩内の大庄屋たちも全員、同じようにお金やコメを献上。集まった資金は参拝者にふるまう赤飯代として使われた。赤飯の用意は大庄屋などが担当。地元武丸の大庄屋が世話係を務めた。同年3月4日から始まった法要には、連日大勢の人が訪れ、14日間で延べ8万8千人に上ったことが記録されている。

新たに見つかった「孝子正助百年忌細録 全」
新たに見つかった「孝子正助百年忌細録 全」

法要では歌会も開かれ、正助の孝行ぶりをたたえる短歌が紹介されている。

宗像市史の「孝子 武丸正助」の項目を担当した日本経済大学の竹川克幸教授(近世史)は、細録は百年忌の4年後に、福岡藩の郡奉行とみられる人物が百回忌の記録をまとめ直したものではないかと推定。「藩としても正直で親孝行の武丸正助の名を、理想的な人物として藩内に広めたかったのだろう」と指摘し「正助の家族愛はコロナ禍の今に通じる精神」としている。