本郷和人の日本史ナナメ読み

異形の古文書㊤後醍醐天皇が部下になりきり?

後宇多天皇宸影(高倉天皇画像) =模本、東大史料編纂所蔵
後宇多天皇宸影(高倉天皇画像) =模本、東大史料編纂所蔵

宝剣代に用いられんがために、旧神宝の内、御剣有らば、渡し奉るべし、てえれば、綸旨かくの如し、これを悉くせ、

三月十七日 左中将(花押)

杵築神主之館

この文書は元弘3(1333)年3月17日の後醍醐天皇の綸旨(りんじ)です。差出人の左中将は千種忠顕、宛先は出雲大社で、『千家文書』中の1通となります。宝剣の代わりとして使いたいので、古い神宝のうちに剣があったら献上せよ、という意味のことが簡潔にしたためられています。

前年に幕府によって隠岐島に流されていた後醍醐天皇は、元弘3年の閏(うるう)2月に島を脱出し、伯耆国の船上山に立てこもりました。そこで近隣の出雲大社のことを聞いたのでしょうか、天皇は剣が欲しい、と求めています。ご存じのように三種の神器のうち、剣は壇ノ浦の戦いで海中に沈んでしまいました。その代わりとして用いたい、ということですね。

何度か説明してまいりましたが、身分の高い人は直には意思を伝達しません。手紙(書状)は書かずに、自分の部下に伝えさせます。「私の主人のだれだれさまが、このように仰(おっしゃ)っている。承知するように」という形ですね。手紙など直接のものを直状(じきじょう)というのに対し、下の人が主命を奉じるので、こうした形式の文書を奉書(ほうしょ)といいます。そのうち、主人が天皇なら綸旨、上皇なら院宣(いんぜん)、親王なら令旨(りょうじ)という名前になります。

この文書を作成している千種忠顕は村上源氏。つまり源氏といっても、武士ではなく、貴族の家の人です。お父さんは権中納言・六条有忠。学問よりも笠懸(かさがけ)や犬追物(いぬおうもの)など武芸を好んだという変わり種で、後醍醐天皇はこの青年をたいへんにかわいがりました。天皇が隠岐島に流されると、お供をしています。流罪決定の時点では天皇が許されて島を出ることは想定されていませんので、忠顕は京都での生活と将来を捨てて、随伴したことになる。天皇の信任があつくなるのは当然ですね。

綸旨を奉じるのは、蔵人(くろうど)、弁官、またはその経験者である伝奏です。この時の忠顕は蔵人を束ねる蔵人頭(くろうどのとう)に任じられている。かつ左中将を兼ねている。『源氏物語』に出てくる頭中将(とうのちゅうじょう)、なのです。蔵人頭は2人ですが、その部下であり文書作成に関わる五位の蔵人は複数います。それで彼らは、蔵人の他に兼ねている官(兼官といいます)の方を署名に用います。後醍醐天皇の蔵人でいうと、高倉光守は勘解由次官(かげゆのすけ)、岡崎範国は式部少輔(しきぶのしょう)と署名します。これなら誰か、分かる人にはすぐに分かるからです。蔵人頭も、蔵人頭とは書きません。兼ねている中将か弁官(頭中将に対して頭弁(とうのべん)という)の方で署名します。

こう見ていくと、この綸旨には特筆すべき点はなさそうに見えます。後醍醐天皇の綸旨として、古文書学的には何の問題もなし、と。ところが、さすが昔の先生方はすごい。あれ? と気がついた方がいらっしゃった。お名前は不明ですが。

元弘3年9月22日の日付を持つ、後醍醐天皇の自筆文書が東寺に残されています。内容は仏舎利の使用制限の申し置き。東寺には釈迦の遺骨である仏舎利が4千粒ほど保管されていました。釈迦の本当の骨かどうかの詮議(せんぎ)はヤボで、ともかく大切にされていた。そして密教の加持祈禱(かじきとう)を行うときに、この仏舎利が使用された。たとえば天皇の病気平癒を祈願するので10粒ください、と朝廷から勅使が派遣された。そうしたことがくり返されるうち、鎌倉末期の段階で、仏舎利は千粒ほどに減少していた。この事態を憂慮した後醍醐天皇は、父の後宇多天皇に続いて、よほどの大事以外には仏舎利を持ち出さぬよう、命じたのです。

文書の画像としては、国立歴史民俗博物館さんの「歴博だより」に掲載されていますので「歴博 後醍醐天皇 仏舎利」で検索をかけていただくと出てくると思います。「仏舎利事」と書き始める文書です。末尾には「元弘三年九月廿二日 花押」とあり、これは後醍醐天皇の花押ですが、花押を書くのに用いている墨の色と本文を書いている墨の色が同一なので、この文書全体が天皇の自筆であることが分かります。

そこで、この文書と先の千家文書の綸旨とを比較してみると、実に興味深いことが判明する。「宝」という字、「剣」という字、「月」に「日」、これらの字が同じ筆遣いで記されている。つまり千家文書の綸旨は筆跡の鑑定により、千種忠顕が書いたのではなく、天皇が書いたものだと認められるのです。

これはどういうことか。天皇は出雲大社に対して、適当な剣があったら渡すよう命じたいと思った。それで、忠顕に書かせればよかったのですが、彼はおそらく倒幕の軍事活動(忠顕は軍事もできる貴族でした)に忙しく、天皇のそば近くにいなかった。そこで天皇は、何とビックリ、自身が忠顕になりきって、文書を作成したのです。

どうしてこんな面倒くさいことをしたのか。そのあたりを次回で考えましょう。(次週に続く)

■賢帝、後宇多天皇

1267~1324年。後醍醐天皇の父君。網野善彦先生により、真言密教への深い理解とあつい信仰を有する天皇だったことが明らかにされた。私はそれだけでなく、政治的にもきわめて英邁(えいまい)な君主だったと分析した。幕府との連携を大切にしていたが、その没後すぐに正中(しょうちゅう)の変が起きているところから、後醍醐天皇の倒幕を何とか押し止めていたのがこの方だったと推測できる。ただ、この肖像は、後宇多天皇のものとされているが、像容の上の2首の歌からすると、高倉天皇のものであるようだ。

【プロフィル】本郷和人

ほんごう・かずと 東大史料編纂(へんさん)所教授。昭和35年、東京都生まれ。東大文学部卒。博士(文学)。専門は日本中世史。

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