話の肖像画

元ソニーCEO、クオンタムリープ会長・出井伸之(83)(5)「トランジスタラジオ」に惚れ込んで…

昭和32年3月、東京通信工業(現ソニー)が発売した世界最小のトランジスタラジオ「TR―63」
昭和32年3月、東京通信工業(現ソニー)が発売した世界最小のトランジスタラジオ「TR―63」

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《早稲田大学高等学院時代から、東京六大学野球の早慶戦を見に行くようになった。スタンドでの観戦に欠かせなかったのがラジオだ》


高校生のころ家にあったラジオは松下電器産業(現パナソニック)製の真空管ラジオでとても重たかった。小型で軽いトランジスタラジオが登場したのは大学生になったころです。

僕はそのトランジスタラジオに惚(ほ)れ込んで、「これどこで作っているんだろう」と思って調べたのが、ソニー(当時は東京通信工業)との出会いでした。


《ソニーは昭和30年、日本初のトランジスタラジオを発売。2年後には当時としては世界最小のラジオを売り出し、「ポケッタブル」という造語も生まれた》


自分の将来について、おやじや兄への対抗心もあって学者でも外交官でもない道を模索していました。そして早く独立するために海外で生活したい、アメリカよりはヨーロッパに行きたい、と思うようになりました。

「トランジスタラジオはこれから大きく伸びる」と感じた私はソニーにひかれました。おやじが東洋経済新報社の研究所所長を務めていたこともあり、東洋経済の人に会いに行くと「いい会社だけれども人は少ないよ」と教えてくれました。

ソニーには縁がありました。創業者の一人、井深大さんのお嬢さんが成城学園小学校の同級生だったのです。でも、井深さんが学校に来ている姿は見たことがありませんでした。

そこで、東京・品川にあるソニーの本社まで行って、人事部に「井深さんに会わせてください」と頼みました。今振り返ると恐ろしいことですが、それでも気軽に会わせてもらえた。「自由な会社だな」と思いましたね。

当時のソニーはベンチャー企業そのもので、社屋も汚い木造。部屋に入ると、社長の井深さんと副社長の盛田昭夫さんが机を並べて座っていました。

「君は何がやりたいんだ」と聞かれたので、「僕はこの会社をヨーロッパで伸ばします」と答えました。当時のソニーはアメリカ進出を果たしていましたが、ヨーロッパはこれからだったのです。そのときは半導体の話もしました。

その後、実際に就職するときには、入社後に留学させてほしいという交渉をして、承諾してもらいました。おやじには「大学院で博士課程を修了して後を継ぎます」と噓をついて、留学のお金を借りました。後でちゃんと返しましたけどね。


《留学する前に、早稲田大学で同窓生だった晃代(てるよ)さんと結婚する》


就職も留学も結婚も全部同じ時期でした。すべて親から自立するために考えたことです。入社2年目で2年間休職して、ジュネーブの国際・開発研究大学院に留学し、「第三の道」で知られるドイツの経済学者、レプケ教授に師事しました。

ジュネーブはおやじから聞いていた通りの街でした。レマン湖があって、大きな噴水があって。今でも時々懐かしくなります。コロナ禍になる少し前にも夫婦で行ってきたんですよ。

フランス語で「欧州経済共同体(EEC)の誕生と企業統合」というリポートを書き上げ、おやじに渡しました。おやじは早大で少し下の学年だった井深さんのことも、ソニーのことも知っていました。そういう会社に就職したということで、おやじも納得してくれたんじゃないかな。(聞き手 米沢文)


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