「研究で一番大切なのは多様性です」-。地球温暖化の予測に関する先駆的な研究を続けた業績が高く評価され、外国籍を含め日本で28人目のノーベル賞受賞者となった真鍋淑郎(しゅくろう)氏。地球規模の研究に与えられた大きな栄誉に、真鍋氏を知る人からは「後進の研究者にとっても、大きな励みになる」と祝福が寄せられた。
真鍋氏は1931(昭和6)年、愛媛県新宮村(現・四国中央市)の出身。日本気象学会の機関誌「天気」などによると、親戚一同は医師。旧制三島中学(現・同県立三島高)を卒業し、東京大に入学した当時は、医師を目指すつもりだった。
ところが、カエルの解剖実験では誤って神経を切断、化学実験では試薬を間違えて爆発させてしまうなどミス続きだったという。結局、医学の道を断念し、地球物理学、そして気象学の道に進むことになった。
東大大学院の修士課程では「雨の予報」の研究に挑戦した。当時はまだ計算機のない時代。仲間とともに昼夜、人海戦術で計算に取り組んだ。
博士課程のとき、この研究をまとめた論文が米気象局の目に留まり、研究官としてスカウトを受けた。
「素晴らしいオファーだ」
当時の日本の気象庁は旧軍気象部の人材を多く採用しており、博士号を取得したところで職を得るのは難しく、渡りに船だった。日本にとっては「頭脳流出」だったともいえる。
1958年に渡米。そこでの研究環境は日本とはまるで違っていた。世界最先端の計算機が自由に使え、日本よりはるかに高給。そして研究室では、気温や雨の分布といった地球の大気の動きをコンピューター上で再現し、大気循環モデルをつくるという野心的なプロジェクトが始まったばかりだった。
「研究三昧でまるで天国」。ただ、コンピューターのプログラミングは大の苦手。ノイローゼになるほど苦労したが、最新鋭の研究に没頭していると瞬く間に時は流れた。
当時の米国は57年のソ連による人類初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げ成功に衝撃を受け、科学研究に大きな力を注いでいた。人工衛星の打ち上げは失敗続きだったが、周囲の研究者らはそれに落胆することなく、その技術をどう気象学に利用するかについて議論し合った。のびのびとした、夢いっぱいの研究環境が真鍋氏を米国にとどまらせた。
97年までの約40年間にわたり、米国の公的機関で気候研究に従事。生涯を通じて全球気候モデルの開発と応用研究を行い、温暖化科学の世界的パイオニアとなった。
地球温暖化対策の新たな枠組み「パリ協定」を採択した2015年の国連気候変動枠組み条約第21回締約国会議(COP21)の際には、真鍋氏の功績をたたえ、開催地のフランス・パリの駅構内に、真鍋氏の名前や全球気候モデルの数学方程式を記したパネルが掲げられた。
多様性の中で偉大な研究は生まれた。地球流体力学研究所の日本人研究者には日本での仕事を辞して渡米した者も多かった。「その不安定さがクリエイティビティにはいい」。真鍋氏は09年、特別招へい教授を務めていた名古屋大の広報誌のインタビューで当時を振り返り、こう語っている。
「もっと今の人たちも外国に出ていってほしい。うまくいかなくても英語くらいは上手になって帰ってくる。違ったものの考え方も吸収できる。研究で一番大切なのは、多様性です」
17年に日本で開かれた笹川平和財団海洋政策研究所主催の地球温暖化に関する講演会で、「天気予報の社会に対する貢献は大変で、本当はノーベル賞を与えてもいいと僕は思う。そのくらい今、天気予報は素晴らしくなってきた」と冗談交じりに語っていた真鍋氏。天気予報を超える地球規模の貢献に、最高の栄誉が贈られた。