【新選組外伝~木村幸比古筆(7)】土佐藩の龍馬 なぜ暗殺(1/3ページ) - 産経ニュース

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新選組外伝~木村幸比古筆(7)

土佐藩の龍馬 なぜ暗殺

冊子「汗血千里駒」には坂本龍馬(右)がピストルで幕吏に応戦する図が掲載されている(霊山歴史館提供)
冊子「汗血千里駒」には坂本龍馬(右)がピストルで幕吏に応戦する図が掲載されている(霊山歴史館提供)

幕末の志士の中で、現在も最も人気の高い一人といえば坂本龍馬だろう。龍馬と新選組。彼らの接点を探ってみたい。

土佐はそろばん、薩摩はお盆、長州は馬面-。幕末の京都市中では志士の「天誅(てんちゅう)テロ」が横行し、取り締まる新選組はこう人相を判断したという。土佐の龍馬の同志も斬殺、捕縛された者も少なくない。

一方、過激な行動を嫌う龍馬は、慶応元(1865)年に伏見で妻のお龍と歩いていて偶然、新選組と遭遇した際も、鼻歌を歌って隙をみて、お龍をその場に置き去りにして逃走。身のかわしかたは絶妙だった。

龍馬にとって人生の転機となったのが、元治元(1864)年の池田屋事件だった。三条大橋周辺は各藩の定宿が軒を連ね、旅宿池田屋は長州の者が出入りしていた。その一室で密会中の志士を新選組が急襲し、多くを討ち取り捕縛した。

龍馬の同志の望月亀弥太(かめやた)もいた。龍馬の紹介で幕府軍艦奉行の勝海舟門下生となり、航海術を学び、海軍を志していた。望月は土佐藩からの帰国命令に従わず、長州藩京都屋敷に身を隠し、勤王運動に奔走した。池田屋では深手を負い、長州屋敷に逃げ込むつもりだったが門が閉ざされたため、自刃した。

京都守護職が討ち死にした志士の身元を調べた結果、土佐藩では望月のほか、北添佶摩(きたぞえきつま)、藤崎八郎らが密会に加わっていたことが判明した。望月は勝の私塾の門下生で、塾頭は龍馬。その結果、幕府は勝が責任者を務めた神戸海軍操練所に閉鎖を命じたため、勝は龍馬ら門下生に薩摩藩の援助の下に長崎で、日本最初の商社とされる「亀山社中」を立ち上げさせた。