【千田嘉博のお城探偵】愛知県・岡崎城 「超攻撃型」本当は恐い家康 - 産経ニュース

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千田嘉博のお城探偵

愛知県・岡崎城 「超攻撃型」本当は恐い家康

岡崎城の中心部に備えた馬出し「持仏堂曲輪」。写真中央の木の奥に、わずかだが天守がのぞく(筆者撮影)
岡崎城の中心部に備えた馬出し「持仏堂曲輪」。写真中央の木の奥に、わずかだが天守がのぞく(筆者撮影)

徳川家康は、我慢強く慎重とイメージする。そんな家康のイメージと重なるのは「しかみ像」であろう(「しかみ」とは顔をしかめていること。正式な資料名称は「徳川家康三方ケ原戦役画像」愛知県・徳川美術館蔵)。1572(元亀3)年に家康は遠江(とおとうみ)国三方ケ原に武田信玄を追撃して大敗した。すると家康は敗北を胸に刻むために憔悴(しょうすい)した姿を描かせて、慢心を戒めたという。人生最悪の姿を描かせたとは、さすが家康ではないか。

ところがこの「しかみ像」を、敗戦に落ち込む家康を描いたと説明しはじめたのは1936(昭和11)年からで、徳川美術館の宣伝のためだったと、名古屋城調査研究センターの原史彦学芸員が明らかにした。そもそも「しかみ像」は、1780(安永9)年に紀州徳川家から尾張徳川家に嫁いだ姫の嫁入り道具のひとつで、家康の時代のものでさえなかった。

つまり徳川家康のイメージは近代以降の創作によるところが大きく、真実の家康はなかなか見えてこないのである。それでは城から家康を評価したら、どんな家康像が見えるだろう。愛知県岡崎市の岡崎城をお城探偵して考えたい。

岡崎城は中世以来、徳川氏の前身である松平氏の本拠のひとつで、家康もこの城で生まれた。今の岡崎城の姿は天守台石垣に天正10年代にさかのぼる部分を含むように、家康が本能寺の変後に甲斐などに領国を広げた「五カ国領主時代」に骨格ができた。

この岡崎城中心部成立の画期になったのは1584(天正12)年の小牧長久手の戦い後で、家康と連携して羽柴秀吉と戦った織田信雄(のぶかつ)が秀吉と単独講和すると、家康の三河領は対秀吉戦の最前線になった。家康は秀吉の三河進攻に備えて、三河一帯の城の大改修を実施した。そして岡崎城は西三河防衛の最大の拠点だった。

こうしてできた岡崎城の中心部は、例を見ない城になっていた。天守の直下から対岸の「持仏堂曲輪(じぶつどうくるわ)」に木橋を渡して連結するようにしたのである。本丸の奥にあって行き止まりになっていることが多い天守を、本丸の防御正面に置いて、直接外へ出る橋を備えたのは異例中の異例である。

天守から橋を渡った先の持仏堂曲輪が、特異な設計の謎を解く鍵を握っている。この曲輪は城からの出撃力を最大限に高めた出入り口・馬出しになっていた。つまり岡崎城は天守を中心部防衛の拠点に位置づけて敵を圧倒し、近づけば馬出しから即座に反撃できるようにした超攻撃型の城だった。

本丸の大手口にも馬出しを備えて、持仏堂曲輪の馬出しと相互に連携した。この洗練を究めた岡崎城の連結馬出しは、若き日に馬出しの城の達人だった武田信玄から学んだ成果と、武田氏滅亡後にすぐれた武田氏の旧臣を家臣に招き入れた成果であろう。

強大な秀吉と対決して家康は、敵が来ればたたき潰すという強気の城を築いた。本当は怖い強気の家康が、真実の家康だと思う。家康はのちに、愛知県の名古屋城でも超攻撃型の城を築こうとした。強気の家康は晩年まで不変だった。

(城郭考古学者)

岡崎城 15世紀半ばに三河守護代の西郷氏が築いた砦(とりで)が始まりとされ、徳川家康は1542(天文11)年にこの城で産まれた。1560(永禄3)年の桶狭間の戦いで今川氏の支配が解けると、家康は浜松城に移る1570(元亀元)年まで居城にした。豊臣家の重臣・田中吉政が城主の時代に城下町を整備し、「総構え」を持つ東西約1・5キロ、南北約1キロの大城郭に。明治に入って破却された天守は1959(昭和34)年、鉄筋コンクリートで外観復元された。