妊娠から出産、育児に至るまで、母と子の健康状態を記録する「母子手帳」(母子健康手帳)。昭和23年に誕生して70年余り、今や50を超える国や地域に広がっている。予防接種の記録など治療に必要な医療情報を記した母子手帳は、紛争地域では「命のパスポート」と呼ばれ、難民の親子がかばんにしのばせて国境を越えたケースもある。日本発の母子手帳が、世界各地の母子の命と健康を守っている。
食糧難に感染症の拡大、医療体制も不十分だった戦後まもなくの日本は、乳児死亡率が高かった。そこで国は23年、それまでの「妊産婦手帳」と子供の成長を記す「乳幼児体力手帳」を1冊にまとめた世界初の母子手帳を作成。妊婦や子供への食糧配給の手帳としての役割も担ったという。
当時、世界では妊婦や子供用のそれぞれ独立した健康カードが存在したが、母と子の医療記録を一本化した日本の母子手帳は紛失しにくく実用性が高かった。現在、日本の乳児死亡率の低さは世界最高水準にあり、健診や予防接種の履歴などを記録する母子手帳が果たした役割は大きい。
日本生まれの母子手帳はアジアで世界に広がる一歩を踏み出した。国際協力機構(JICA)からインドネシアに派遣された小児科医で公益社団法人「日本WHO協会」理事長の中村安秀さん(69)は、歩けない3歳児を診察した際、妊娠中や出産時の状態が分からず治療に困った。その経験から、素早く適切な医療が施されるように地元州の幹部と母子手帳の試作版を1988年に作成。「診断や治療に役立つ医療情報が詰まった母子手帳は、すごいシステムだと実感した」と当時を振り返る。
数年後には同国の医師たちと共同で母子手帳を開発し、モデル地区での配布を経て97年、国として母子手帳が導入されるに至った。
母子手帳はJICAやユニセフ(国連児童基金)、非政府組織(NGO)などの協力で現在、ベトナムやミャンマー、ガーナ、カメルーンなどアジアやアフリカの途上国を中心に、50以上の国や地域で広がりを見せている。
各国の社会情勢や文化風土が反映されているのが特徴で、ケニアではエイズウイルス(HIV)対策の役割を担い、フィリピンでは医療が届きにくい少数民族用の特別版がある。
乳児を連れてボートでギリシャに逃れたパレスチナ難民の母親のかばんには、水にぬれないようビニールに包んだ母子手帳があったという。「国境を越えても予防接種記録などを基に医療を受けることができる母子手帳は命のパスポートでもある」と話す中村さんは、98年から「母子手帳国際会議」を各国で開催するなど普及に尽力してきた。
日本の母子手帳も時代に応じて進化し、自治体によって20歳までの成長が記録できるものや小さく生まれた子供向けのもの、外国語版、デジタル版などが導入されている。「今後、地域の実情に応じて親や子供の意見も取り入れた母子手帳ができれば」と中村さん。
未来を担う子供たちに母子手帳について知ってもらいたいと今月、ルビを多用した子供向けの著書「海をわたった母子手帳」(旬報社)を出版した。
現在、世界を覆う新型コロナウイルス禍にあって、予防接種などの医療を届ける母子手帳が果たす役割はますます高まっている。「母子手帳によって誰も取り残されない仕組みづくりを、今後も発展させてほしい」と期待している。(横山由紀子)
母子手帳(母子健康手帳) 妊娠中や出産時の母子の状態、子供の身体計測、予防接種、健診などの医療情報を記録し、成長と健康管理に役立てる小冊子。妊娠を届け出ることで各自治体から交付される。昭和23年に日本で誕生し、世界の50以上の国や地域で使用されている。