話の肖像画

台北駐日経済文化代表処代表・謝長廷(75)(24)初の正副総統選に出馬、奇跡の得票率21%

総統選に民進党から出馬した総統候補の彭明敏氏(右)と副総統候補、謝長廷氏=1996年1月
総統選に民進党から出馬した総統候補の彭明敏氏(右)と副総統候補、謝長廷氏=1996年1月

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《1996年の総統選挙に副総統候補として出馬した》


当時の李登輝政権が憲法改正を経て、米国の大統領選挙のように総統と副総統のペアを有権者の直接投票で選出する制度を台湾で初めて導入、96年3月23日が最初の投開票日でした。それまでは国民党主導の間接選挙で、台湾の民意を反映できていなかったのです。当時の李総統は有権者に直接、審判を求める選挙に臨みました。

一方、民進党は86年の結党から10年。初の総統選に候補を出さなければ野党として意味はありません。政治学者として知名度の高い元台湾大教授の彭明敏(ほう・めいびん)先生を総統候補に選びました。

戒厳令時代に政治犯となり、米国亡命を余儀なくされた彭先生ですが、李政権が政治犯の指名手配を解除したため、92年に台湾に戻っていました。

民進党はまだ選挙にあまり慣れていない時期で、副総統候補に何人も出馬の意欲を見せました。一方、彭先生は当時、台湾に戻って数年しかたっておらず、地方情勢に詳しかった私に副総統候補として白羽の矢を立てたそうです。

私は89年から民進党の立法委員(国会議員に相当)を務めていましたが、指名を受けて決心を示すため、議員辞職しました。


《彭明敏さんは李登輝さんと懇意にしていたというが》


2人とも23(大正12)年生まれの同い年です。日本の帝国大学で学んで戦後、台湾に戻って知り合いましたが、共通点の多さもあり、台湾大教授同士で懇意にしていました。2人の会話はほとんどが日本語か、地元の台湾語だったと聞いています。

その後、李先生は国民党に入り、政権内部で民主改革を進めました。一方、彭先生は政治犯となって米国から民主化をめざすなど、対極の人生を歩んできました。

その2人が総統の座を争うことになったのは不思議なことでしたね。ただ選挙戦で2人とも互いの陣営に対する批判めいたことは一切、口にしませんでした。自分たちの主張を正々堂々と述べあい、選挙戦にありがちな争いはなかったのです。

ただ、民進党候補に勝ち目はなかった。李先生の支持率が非常に高かったからです。


《総統選での選挙結果は》


かつての国民党権力者、蔣介石(しょう・かいせき)とその長男、蔣経国(けいこく)らはみな中国大陸出身者でしたが、李先生は台湾生まれで初の総統であり、台湾の人々の期待を集めていました。投票の結果、李登輝陣営は580万票あまりを獲得し、得票率54%で当選です。

一方、野党として初めて出馬したわれわれでしたが、蓋を開けてみれば230万票近くを得て得票率も21%でした。敗北とはいえ善戦したと思います。正直にいえば、結党10年にしてのこの成果は奇跡でしたね。


《予想外の得票だった》


彭先生も私も「台湾色」の強さにかけては李先生に負けない存在でした。考えてみれば双方合わせて75%もの得票が台湾独自の将来像に期待を示したといえ、私は「台湾人民必勝の戦いだった」と感じています。

91年のソ連崩壊で東西冷戦は終わっていました。台湾社会の趨勢(すうせい)も大きく変わっている。台湾は、さまざまな呪縛から解き放たれていく時期でしたね。

台湾では選挙が終わってから、勝っても負けても有権者に感謝をささげに出向く「謝票」という習慣があります。私たちは全土を回って謝票しました。直接投票の総統選は、台湾の人々の政治意識まで塗り替えたようです。そのときはまさか4年後、国民党候補を破って民進党が台湾で戦後初めて、政権交代を成し遂げるとはまだ思っていませんでした。(聞き手 河崎真澄)

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