ビブリオエッセー

忘れがたい人間ドラマ 「新版 匠の時代」内橋克人(講談社文庫、岩波現代文庫)

先日、内橋克人さんの訃報を読みながら、まず脳裏に浮かんだのは『匠の時代』だった。

昭和50年代、仕事帰りの電車の中で、「夕刊フジ」の連載「匠の時代」を愛読した。当時は企業の研究部門の端くれにいて、毎夕、これを読むのが楽しみだった。

内橋さんは「企業と人間」をテーマに、商品開発における関係者の思いを、新聞記者の経験を生かした丁寧な取材で掘り起こした。細やかにして大胆にドラマ化し、シリーズにした。

サンケイ出版をはじめ何度も書籍化されたシリーズだが、特に感銘を受けたのは、「『生命の海』を拓く」と題された巻の「人工補助肝臓」開発をめぐるドキュメント「倉敷物語」である。

昭和53年1月、倉敷中央病院に生後2カ月半の乳児を抱えた若い母親が緊急入院した。劇症肝炎だ。当時の医療で生き抜く可能性は10パーセント。家族の悲痛な願いに開発まもない「血液体外浄化装置」という人工補助肝臓の使用を決める。それは臨床実験の段階にあり、開発者は試作器を手に病院へ走った。

医師、開発者、家族が一体となって立ち向かう。内橋さんはその現場をリアルに再現し、情感豊かな筆致で読者を引き込んだ。

このコロナ禍でもよく指摘されるが、今の日本は目先の結果を追い、研究開発に対する辛抱強さや長期的な視野が希薄になっていないか。当時は研究開発者の挑戦をじっと支える現場がいたるところにあった。その意味でも現代社会に一石を投じるシリーズだと思う。

内橋さんは神戸っ子だ。神戸は国際港として発展し、進取の気性と下町的な人情が相まっている。そんな空気の中で経済を見る目を養い、人間のための開発とはどうあるべきかを考えてこられたのだろう。

兵庫県三田市 原田正彦(74)

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