現役スプリンター 末續慎吾の哲学

東京五輪に足りなかったもの

【東京五輪2020 陸上競技 1500メートル】<決勝>8位入賞を果たした田中希実=国立競技場(桐山弘太撮影)
【東京五輪2020 陸上競技 1500メートル】<決勝>8位入賞を果たした田中希実=国立競技場(桐山弘太撮影)

東京五輪が終わった。あくまで個人的な感想だが、どこか記憶に残らない大会だった。いや、記憶を探さないと自然に出てこないと表現した方が適切だろうか。率直に言って、もっと感動すると思っていた。

もちろん選手は頑張っていたし、心が動いた場面もあった。陸上女子1500メートル8位の田中希実(のぞみ)選手は世界のトップ選手に一目置かれる走りを見せ、男子3000メートル障害7位の三浦龍司選手も勝負の仕方が良かった。

なのになぜ、僕の心はそれほど沸き立たなかったのか。むしろむなしさすら残っている。

理由は、大会までの過程だろうか。政府や大会組織委の新型コロナウイルス対策の説明は本当に十分だったか。大会開催の意義を多くの人たちと共有できていたか。自分の中の大事な部分が整理されないまま進んでしまったから、大会中も五輪とは関係のない思考や感情がたくさん出てきてしまい、心の邪魔をした。「応援することの意味とは何か?」と、いちいち考えてしまったりして、感動したいと思う心がついていかなかった。

「まな板の鯉(こい)」ではないが、観客の有無など運営面において、政治の決定の上に、ただスポーツ界が乗っているかのように見えてしまったことも少なからず影響したと思う。

結局、人は競技の結果だけでは感動しないということだ。いきなり「金メダル取りました。どうですか?」と言われても「すごいね」で終わってしまう。選手が頑張り、サポートする人がいて、それらに気持ちを乗せて応援していく。皆のベクトルが同じ方向を向き、メダルを獲得したり、うまくいかなかったりといったドラマに集約される。そこに感動=スポーツの意義は瞬間的に生まれる。

スポーツは本来、理屈抜きに人を感動させる力がある。どのような過程を踏んできたか、共有できていたかが最終的に感動を広く深く喚起できるかを決める。閉幕後、国内で東京五輪に関する会話がどこか色あせたように感じるのは、「みんなでやった」という感覚が決定的に足りなかったからではないか。

世の中はスポーツに関わる人ばかりではない。その人たちに対しても過程を過不足なく表現し、「心」を引っ張っていくことがアスリートのすべきことなのだろう。難しかった「コロナ禍の五輪」だったからこそ、逆に本質がよく分かった。

(陸上世界選手権200メートル、北京五輪400メートルリレーメダリスト)