論壇時評

10月号 政治の秋と保守の将来像 文化部・磨井慎吾

東京・渋谷のスクランブル交差点では菅義偉首相が総裁選不出馬を表明したことを伝えるニュースが流れていた=3日午後(三尾郁恵撮影)
東京・渋谷のスクランブル交差点では菅義偉首相が総裁選不出馬を表明したことを伝えるニュースが流れていた=3日午後(三尾郁恵撮影)

新型コロナウイルス「デルタ株」が猛威を振るった重苦しい夏がようやく終わり、政治の秋が来た。3日の首相の辞意表明以降、にわかに混戦の様相を呈している自民党総裁選とそれを受けての新首相選出と新内閣発足、その後に実施される衆院選という大型政治イベントの連鎖を控え、ニュースの中心はすっかり政局報道に移ったように見える。

今月発売の論壇誌の多くは8月下旬締め切りであり、当然ながらその後に生じた政局の激動はフォローできてないし、中には首相の総裁選出馬を前提にした記事も見受けられた。だが、そもそも月刊論壇誌は常に一拍遅いタイミングで物事に臨むメディアである。それゆえに時局を論じつつも時局から適度に距離を置き賞味期限を長く取った論じ方が許されるというメリットもある。今夏の第5波の渦中で浮き彫りになった日本の政治や社会の弱点は、現在も何ら解決をみたわけではない。感染のピークアウトで当面の危機が過ぎ去ろうとしている今だからこそ、改めて振り返っておく価値があるだろう。

思想史研究者の片山杜秀(もりひで)「『共通の言語』を喪失した日本人へ」(Voice)は、このコロナ禍においてウイルスの脅威度評価やワクチン接種への態度などをめぐり、国民的な共通理解や連帯感が失われていると指摘する。その状況を打開するのが「政治のリーダーシップ」なのだが、信念なく政権支持率を維持することのみを追求する現状の政治は、私権制限などに踏み込む大きな決断は避けて飲食店営業規制など場当たり的対策に終始しがちで、「民主主義の負の側面だけが表出」する結果になってしまっている、とみる。

だが、民主主義国で本来あるべき政治は、そうしたものではないはずだと片山は説く。「政治とは一種の『賭け』で、国民の理解を得られない政策を断行すべき局面もあります。それが結果的に上手(うま)くいけば支持を得られるし、失敗したならば国民を説得できなかった面も含めて責任をとる。あるいは、政策が不首尾に終わっても信念やプロセスが幾分かでも評価されれば、再びチャンスをもらえる」

では、なぜその理想像が日本では機能せず、政治のリーダーシップが失われているのか。政治学者2人の対談である牧原出・吉田徹「『ビジョン』と『哲学』を語れる政治家が必要だ。」(潮)には、その疑問への一つの答えがある。牧原の「諸外国と比べると、日本のリーダーは、『安心・安全』と繰り返したかと思えば『外出自粛を』と一転させたりして、科学研究を踏まえた説明、言葉が足りていませんね」との問題提起に対して、吉田はこう応じる。「リーダーシップが適切に発揮されるためにはフォロワーシップ(下支え)も必要です。日本の国民やメディアは政治家や官僚に無謬(むびゅう)性を求めすぎる嫌いがある」。しかしそれは、臨機応変な対応が求められるコロナ禍下状況とは決定的に相性が悪い。「新型コロナという未知の脅威に対して、不可避的な政策の試行錯誤や軌道修正さえも許さない雰囲気がある。このままでは、政治家や行政の『間違えた場合のことは考えないし、間違いがあってもそれを認めない』という傾向が強くなり、それが政治不信を呼び込むという悪循環を招くことになります」(吉田)

政治不信による低投票率のもとで、政治はまず自陣営の支持固めに走り、保守もリベラルも言葉がますます内輪向きになって対立を深めていく。こうした閉塞(へいそく)感の中で、哲学者の東浩紀と政治学者の宇野重規との対談「観光客の民主主義は可能か」(ゲンロン12)は、保守とリベラルの対立の根源を問い直しながら、今後の民主主義の形を模索するきわめて刺激的な内容だった。

宇野によれば、親密で閉じたコミュニティー(共同体)を大切にする保守に対し、リベラルはそこから離れた普遍的連帯を重んじる点に違いがある。だが「いまのリベラルは自分たちこそ開かれていると信じています。でも外から見るとあきらかに閉じている。それが彼らが力を失っている理由です」(東)。そうリベラルの矛盾を指摘しつつも、東はそこから、そもそも開かれているか閉じているかという批判に本質的な意味があるのか、人はみな開放性と閉鎖性のスペクトラム(連続体)の中にいるのではないか、と論を進めていく。そこまで深く掘れば、保守とリベラルの対立も怪しくなる。というよりもむしろ、リベラルも保守の一つのあり方として包摂されていく。東は言う。

「ぼくたちはどんな主義を掲げたところで、過去の伝統を引き受け、所与のアイデンティティを修正しながらまえに進んでいくしかない。それはイデオロギーとは関係ない人間の条件そのもので、保守でもリベラルでも同じです」。そしてその伝統を不変で排他的なものとして扱わず、必要に応じて再発見され更新されていく柔軟なものと位置づける「再帰的な保守主義」を東は提案する。

対談の主要テーマである政治参加のあり方についても、メンバーの一体性を目指す民主主義と個人の多様性を重んじる自由主義の間の緊張関係に言及しながら、「完全に距離を置くのとフルコミットメントの中間、それはつまり自由主義と民主主義の中間」である「観光客」に可能性を見いだす点で2人は合意をみる。「一定の関心を共有しつつ、嫌になったら自由に離脱できるという観客=観光客のあり方は、ポストコロナ社会における政治参加モデルのひとつになる」(宇野)。観光客が多く入るということは、外部の視点がもたらされることであり、いかに保守的な人や地域であっても、何かしら現実に即して変わらざるを得ない。「そういうひとたちの手を借りることで伝統を更新し再定義するというのが、再帰的保守の立場だと思います」という東の言葉は、保守の今後を考えるヒントにもなるだろう。(敬称略)=次回は10月28日掲載予定

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