【話の肖像画】台北駐日経済文化代表処代表・謝長廷(23)35年前、妻に遺書 初の野党を結成 - 産経ニュース

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台北駐日経済文化代表処代表・謝長廷(23)35年前、妻に遺書 初の野党を結成

当時は非合法だった初の野党、民主進歩党を結党し、記者会見を行う謝長廷氏(中央)=1986年
当時は非合法だった初の野党、民主進歩党を結党し、記者会見を行う謝長廷氏(中央)=1986年

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《台湾初の野党結成に関わった》


日本がバブル景気に向かっていた1986年、当時の台湾には「結社の自由」も「言論の自由」もありませんでした。中国大陸由来の国民党政権による一党独裁で、49年に敷かれた戒厳令が続いていました。そのころの台湾での国民党の強権姿勢も人権弾圧も、現在の中国と状況は似たり寄ったりですよ。

国民党に属さない組織や人物の政治的な活動は「党外」と扱われ、野党の結成は即刻、逮捕される危険がありました。一方で水面下では、79年12月に起きた民主化運動の弾圧「美麗島事件」をきっかけに、民主化を求める勢力が力を合わせていく道を探していました。国民党政権に対してのチェック・アンド・バランスの観点からも、台湾の人々にとって野党の結成は悲願だったのです。そんななか、86年12月の立法委員(国会議員に相当)選挙を控えた9月28日、電撃的に「民主進歩党(民進党)」結党を発表しました。


《摘発されなかったか》


野党は当時〝秘密結社〟のようなものです。美麗島事件で逮捕された人物や弁護士ら民主化を求めるメンバーは、極秘裏に準備を進め、情報は漏れなかった。特務機関などが手薄になる週末を選び、台北市内のホテルで別の名目で開いた会合で突然、結党を公表しました。

いまだから明かせますが、この日、私は「遺書」を書いて妻に渡していました。妻との約束を破って政治活動に乗り出してしまったのです。仮に摘発され政治犯となって処刑されたとしても、戦後の台湾で初めての野党、民進党が一日でも存在した、との記録が台湾史に刻まれればいいと考えていました。

結党の日、美麗島事件でデモに参加した民主活動家や、私のように事件の裁判を支援した弁護士ら100人以上が会合に参加しました。美麗島事件こそが民進党の出発点でしたね。


《党名の由来は》


民主進歩党という党名は私が提案したものです。党外の人たちの中には民主主義を求める中でも比較的、保守的な考え方の人々と、労働問題や環境問題などリベラルな志向を強く抱く人々など、一枚岩にはなりにくい素地がありました。

しかし、一党独裁に立ち向かって民主主義を勝ち取るためには、大同小異で一致団結する以外に手段はないのです。保守的な「民主」と、リベラルな「進歩」を合わせた党名でした。ただ当時、台湾のメディアはほとんど報道せず、中国時報という大手紙のみが短い記事を書いただけでした。


《国民党政権の反応は》


86年当時に総統だった蔣経国は、結党から3日ほどたって李登輝副総統に「(民進党は)民間の法人として扱えばいい」と言ったそうです。国民党も野党の登場はやむを得ないと覚悟していたようでした。事実上の黙認、といっていいでしょう。

米国から国民党への民主化要求の圧力も背景にあったはずです。台湾の有権者は敏感に反応しました。86年12月の立法委員選などで民進党は躍進。さらに87年7月には蔣経国が戒厳令を38年ぶりに解除するなど、時代は大きく変わっていきます。


《今月で結党35周年》


あれから35年とは感慨深いものがあります。結党から14年の2000年、総統選で勝利して与党の座を得ました。国民党以外に選択の余地がなかった台湾の歴史を塗り替えたのです。政権交代を経て再び与党になり、「自主自決」の立場を貫いています。中華文化圏でも民主主義社会ができるということを、民進党が証明したといえるでしょう。(聞き手 河崎真澄)

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