【話の肖像画】台北駐日経済文化代表処代表・謝長廷(75)(21)誘拐殺人犯の妻を弁護することに - 産経ニュース

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台北駐日経済文化代表処代表・謝長廷(75)(21)誘拐殺人犯の妻を弁護することに

銃を持った凶悪犯が人質を取って籠城した住宅に到着した謝長廷氏=1997年11月19日、台北市内(一部画像を処理しています)
銃を持った凶悪犯が人質を取って籠城した住宅に到着した謝長廷氏=1997年11月19日、台北市内(一部画像を処理しています)

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《弁護士時代の仕事で、最も記憶に残っている事件は》


1979年に起きた美麗島事件で姚嘉文(よう・かぶん)氏の弁護もそうでしたが、97年に起きた残忍な誘拐殺人事件とその犯人の籠城(ろうじょう)事件は衝撃的でした。私は事件の過程で犯人の妻の弁護を引き受けなければならなくなり、一部から激しい非難を浴びました。このころ私は、98年の高雄市長選へ出馬する準備をしていました。

事件が起きたのは97年4月。台湾の有名女性歌手、白冰冰(パイ・ピンピン)さんの娘、白暁燕(シャオイェン)さんが下校途中に誘拐されたのです。暁燕さんは当時高校2年生。犯人グループは身代金として500万米ドル(現在のレートで約6億円)を要求しましたが、監禁中に指を切り落とすなど虐待した上、下水溝に遺体を遺棄して、社会を震撼(しんかん)させました。

7人の犯人グループは事業に失敗するなどして多額の借金を抱え、台湾社会と富裕層を逆恨みしていました。捜査当局が実行犯を次々と逮捕したものの、主犯ら3人は逃走を続け、半年以上が経過した11月、最後の1人、陳進興という男が台北市内で南アフリカ大使館の駐在武官宅に短銃を持って押し入り、武官ら5人を人質に立てこもりました。

その陳が自分の妻の弁護を私に依頼してきていたのです。


《犯人がなぜ自分の妻の弁護を求めて指名してきたのか》


かくも残虐な行為を犯し続けた陳でしたが、自分の妻が共犯にされて捜査当局からひどい拷問を受けたとして憤慨し、「妻は無実だ、冤罪(えんざい)だ」と言って、私の事務所に弁護依頼の手紙を出していたのです。南ア駐在武官宅に籠城したとき、各局がテレビ中継を始め、犯人が私を名指しで呼んでいると報じられました。いくつかのテレビ番組に出演して人権派弁護士としても知られていた私に、陳は白羽の矢を立てたようです。逃走中に弁護依頼の手紙を私あてに郵送しており、それを秘書が確認しました。

籠城事件の発生時、私は高雄にいたのですが、翌朝一番のフライトで台北に飛び、すぐ現場に向かいました。駐在武官本人と女の子1人は解放されましたが、武官の妻と乳児を含む子供2人の計3人がなおも人質でした。


《現場は混乱していた》


多数の警官隊が南ア駐在武官宅を取り囲んで、さらに何台ものテレビ中継車からカメラが向けられていました。到着後、すぐに私は包囲していた警官隊に事情を何度も話しましたが、中に入ることは許されず、やむなくいったん、市内の自宅に引き揚げました。

ところが籠城していた陳がテレビ中継を見て、私が現場に来ていたことを知り、警官隊に向かって私を呼び戻せと要求したそうです。警察署長が私の自宅に電話をかけてきて、すぐに現場に来てほしいと求めてきました。

現場は日本人の駐在員らも数多く暮らし、日本人学校もある台北市北部の天母という地区です。警官隊が説得を試みようと陳の妻と2人の間の小さな男の子を連れ出し、中に入れる姿がちょうど目に入りました。このとき私は覚悟を決めました。


《またも危険を冒した》


当時まだ台湾は南アフリカと外交関係がありました。南アの大使館付駐在武官やそのご家族の身に万が一、被害が及ぶことになれば、台湾にとっても南アにとっても重大な外交問題になります。私は、何としても人質3人を無事に解放したかったのです。(聞き手 河崎真澄)

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