タコは古来、日本で親しまれてきた生物でありながらマダコの養殖は難しく、長年の開発課題だった。
養殖の出発点となる稚ダコの育成がネックになっていたのだが、国の水産研究・教育機構の研究グループによって大量育成が可能になった。国内での取り組みから半世紀を経て待望のブレークスルーの到来だ。
だが、養殖の事業化には安価な配合飼料の開発や専用水槽の開発が必要で、これらの難度もまた高い。
彼らはグルメである上に知能が高く、脱走の名手ときているのだ。
研究の現状と展望を、同機構・水産技術研究所(広島県尾道市)の技術開発第3グループ長、伊藤篤さんから聞いた。
50年間の足踏み
マダコはその特性で、水産養殖に適した生物であるという。
まずは成長速度の速さ。約1年で1キロ以上に育つ。第2の特性は餌料転換率の高さ。食べた餌の半分が体の肉になる。泳ぎ回らないので飼育スペースを要さない点も養殖向きだ。
こうした観点から1960年代に、複数の県水産試験場で稚ダコの種苗生産研究が始まったが、現実は厳しかった。
卵からかえった浮遊幼生が、1カ月後に稚ダコ(全長1・3センチ)となって、水槽での着底生活を始めるまでに、大部分が死んでしまうのだった。
種苗生産に成功
なぜか―。水産技術研究所の研究でマダコの浮遊幼生を飼う水槽内の水流に原因があることが判明した。水中を上る気泡で2次的に生じる下降流が遊泳力の弱いタコの赤ちゃんたちを苦しめていたのだった。
水槽の改造と餌の動物プランクトンの変更で、浮遊幼生の生残率が高まり、96%が稚ダコにまで成長できるようになったのだ。
研究グループは昨年、156個体の稚ダコを次のステージの養殖水槽に移して飼育したところ、10カ月後には25個体が1キロ以上、40個体が0・5~1キロにまで育った(8個体は0・5キロ未満)。
生残率は47%。マダコは0・5キロで出荷サイズなので好成績だ。食味の比較試験でも天然マダコとの差はなかったそうだ。
配合餌で満足を
今後の課題の1つは稚ダコを安価に育てる餌だ。伊藤さんによるとマダコは困ったことにグルメなのだ。生きているエビやカニを好んで食べる。
研究所では冷凍したオキアミやアサリ、魚で我慢させているが、事業段階では冷凍餌でもコスト高。他の養殖魚のように配合飼料を使うことが必要だが、マダコ用の開発はこれからだ。
「冷凍アサリや冷凍魚でも、同じ餌だと飽きてしまう傾向が見られます」。なので、マダコを納得させる飼料の開発が難問として待ち受ける。
マダコは共食いをするので、事業での高密度養殖には工夫がいる。軟体動物なので、わずかな隙間からでも逃亡もする。
養殖に人手をかけないためには施設の自動システム化が必要だが、賢いタコの知能を上回る機能を持たせなければならない。
世界の食で人気
現在、水産技術研究所のマダコ養殖技術の高度化研究には、東京海洋大学や岡山県など3県の水産研究機関、民間企業も参画している。開発が急がれる背景には和食ブームの影響による世界でのタコの消費量増加があるようだ。
頭足類(タコとイカ)の2007年と17年の消費量を比べると英国は4・6倍、米国は2・3倍、独仏は2・1倍になっている。
それに対して国内のタコ類の漁獲量は1960年代後半をピークに下り坂。国内消費の半分が輸入タコで占められ、マダコはモロッコなどアフリカ沿岸産のものが多くなっている。
マダコの水産学研究は、90年代から世界で活発化しており、スペイン、イタリア、ギリシャ、豪州、ニュージーランド、ブラジル、メキシコ、米国などが取り組んでいるそうだ。
日本水産でも4年前にマダコの完全養殖成功の一報を発表している。
◇
伝説のソロモン王の指環(ゆびわ)をはめ、昔話の聞き耳頭巾をかぶるとマダコたちの会話が聞こえてくる。
「われわれマダコは世界に広く分布していると考えられていたけれど近年、事情が変わったね」
「地中海やアフリカ方面の仲間の学名はオクトパス・ブルガリスのままだが、日本を含む東アジアの仲間はオクトパス・シネンシスに変わってしまった」
「ラテン語でブルガリスは『普通の』、シネンシスは『中国の』を意味するらしい。日本産のわれわれには一大事だね」
「シネンシスとブルガリスのどちらがマダコを名乗ることになるのだろう」
学名と和名の件は図鑑だけでなく、輸入マダコの表記にも関わりそうだ。