広島・古葉監督が秋の夕日を浴びて、7度「日本一」の宙を舞った。
同じ10月22日、大阪・梅田の阪神電鉄本社では、タイガースの次期監督を決める球団の役員会が行われていた。田中隆造オーナー(本社会長)、久万俊二郎オーナー代行(本社社長)、小津正次郎球団社長らが出席してのトップ会議。
筆者にとって4度目の「監督騒動」は昭和59年10月、安藤統男監督の突然の辞任で始まった。球団は後任に野球評論家・西本幸雄へ監督就任を要請したが、西本は年齢(当時64歳)を理由に固辞。逆に球団へ『阪神の理想監督像』として
①球団に対する愛情の強固な人
②野球に情熱を持っている人
③選手と一緒に動ける人―を示した。
その3要素を持ち合わせる人―として、最有力候補に挙がったのがOBの村山実だった。11年12月10日生まれ、当時47歳。闘志を前面に押し出し全身を使っての投球は「ザトペック投法」といわれ、プロ通算222勝(147敗)。背番号「11」は永久欠番。2代目「ミスター・タイガース」といわれた。各スポーツ紙の報道も、22日のトップ会議を前に『村山監督誕生』で足並みがそろっていた。
トップ会議は約1時間で終わった。久万オーナー代行は群がる報道陣に「会議では複数の候補が挙がった。次期監督は常識的に考えてもらっていいでしょう」と語った。「常識的」というのはこの時点では村山実氏を示唆する言葉だった。
注目の小津球団社長は―
「わたしも腹案を出して言うべきことは言った。全員で田中オーナーに村山さんを推した。まだ、正式決定したわけじゃないが、99%村山さんで決まると思う」と珍しく確率まで口にした。
――なぜ、正式決定にならなかったのか? 記者たちは食い下がった。
「〝わかりました〟といったオーナーが最後に〝それでは一晩だけ私に時間を下さい〟と言われたんだよ」
一晩だけの猶予―。《なんでや?》と何かしら胸にひっかかるモノを感じながらも、「きっと広島の日本一決定に配慮して、発表を1日延ばしたんやろ」と、この時点では誰も「村山監督誕生」を信じて疑わなかったのである。(敬称略)