【話の肖像画】台北駐日経済文化代表処代表・謝長廷(75)(19) 正義を守るのが弁護士の仕事(1/2ページ) - 産経ニュース

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台北駐日経済文化代表処代表・謝長廷(75)(19) 正義を守るのが弁護士の仕事

1976年に台湾に戻り、台北の弁護士事務所で新人弁護士として働き始めたころ
1976年に台湾に戻り、台北の弁護士事務所で新人弁護士として働き始めたころ

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《京都大大学院への留学を終え、いよいよ台湾で弁護士になった》


1976(昭和51)年に京大大学院の博士課程を修了して台湾に戻りました。そのとき台北市内で見習いとして入った弁護士事務所のトップ、劉旺才(りゅう・おうさい)先生の影響を強く受けました。

劉先生は日本大学に留学経験のある弁護士の大先輩で、「弁護士は必ず在野精神を持て」と話していました。私は弁護士資格に加え、裁判官資格の試験にも通っていましたが、劉先生は「裁判官になったら在野精神を失う」とも言って、反骨の「在野」に終始こだわっておられました。

台湾では当時、弁護士の多くは刑事事件を避け、民事に注力する人が多かったのです。大企業の顧問弁護士を狙う方が、収入がはるかに多かったからでしょうね。ただ、劉先生の指導やそもそもの私の考え方もあり、事務所で顧問の仕事をして収入を得ながら、その一方で無報酬の仕事にも力を注ぎました。

不動産取引などにからみ、市民が不利益を被る社会問題を支援しました。「平民法律サービスセンター」という組織の責任者になったのです。当時、ようやく認識が広がり始めていた消費者保護の観点から、無償で相談を受けて仕事をしました。


《無報酬でのボランティア弁護士は珍しかったのでは》


当時はそうですね。さらに私は日本で言う国選弁護人のような「法的救済」の弁護士としても働きました。

弁護士費用を支払う能力のない人も少なくなかったのです。70年代には台湾でも社会運動が各地で起きるようになっていました。国民党の一党支配で、台湾ではなおも戒厳令が敷かれていた時代。民主化要求運動は「反乱だ」と決めつけられるような時代でした。

そうした社会運動の弁護も引き受けるようになり、政治リスクを感じて、顧問になっていた企業の何社もが契約を解除するようになってしまいました。

私は日本で法哲学を学んだ弁護士として、世間からなんといわれても、自らが正しいと考えれば胸を張って政治問題も取り組んでいくべきだ、との強い信念を持っていました。