話の肖像画

台北駐日経済文化代表処代表・謝長廷(75)(18)雪の京都、家族3人のこたつ

京都大大学院に留学中の謝長廷氏。妻と娘とともに =1975年ごろ
京都大大学院に留学中の謝長廷氏。妻と娘とともに =1975年ごろ

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《京都大大学院での留学生時代、どのような勉強をしていたのか》


台湾大法学部の在学中に弁護士資格のための司法試験に合格していましたので、法律のより深い研究に興味を抱いていました。テーマは「法哲学」。法律の本質や目的を考える領域です。法の理念とは何か、法の正義とは何か、国家とは何か、悪法も法なのか、といった研究でした。

1972(昭和47)年に留学して最初の年は南禅寺近くの学生寮「暁学荘」に住み、「哲学の道」を歩いては思索にふけっていましたね。京大に縁の深い哲学者、西田幾多郎(きたろう)の「善の研究」なども必死に勉強しました。前身の京都帝大に留学された李登輝元総統も西田哲学には造詣が深かったので、90年代に面識を得て話をうかがったときも、共通する哲学的な発想を感じました。

指導教官だった加藤新平先生は学究一筋の厳しい方で、先生がお帰りになるまで学生もみな研究室に残っていましたよ。


《留学時代に結婚した》


台湾大法学部のクラスメートで将来を約束していた游芳枝(ゆうほうし)と73年に結婚し、京都に呼び寄せました。京都一乗寺に小さなアパートの部屋を借りて生活を始め、すぐ娘が生まれました。

大学院の研究室に毎日遅くまで残っていましたが、日曜日だけは家族3人で過ごし、娘の成長に合わせて銀閣寺や八坂神社、嵐山などに行きました。

台湾人にとっては珍しい雪が降る冬が楽しみでしたね。南国生まれで寒さは身にしみましたが、小さな部屋でこたつに3人でいっしょに入り、私は必死に日本語で論文を書いていました。楽しかったことや、懐かしい光景ばかり思い出します。


《50年ほど前の留学生活は経済的につらかったのでは》


日台断交の結果、私は日本政府の国費留学生ではなくなりましたが、日本の交流協会が引き継いで公的な奨学金を出してくれたので助かりました。それでも妻と娘の一家3人で、物価も安くない京都市内で暮らす生活は楽ではありませんでした。

近くに台湾出身の方が経営していた中華料理店「蓬莱(ほうらい)」があり、そこで妻と2人でアルバイトを始めました。2年間くらい続けたでしょうか。店内で注文を取って料理を出したり、洗い物をしたり、出前にいったりしました。京都御所の近くにあった警察署にもよく出前にいきましたよ。地元の人は留学生にもみな優しかったことを覚えています。私は器械体操で鍛えた身体でしたが、ラーメンや中華丼などを運ぶ出前は重たくて、家内にはきつかったでしょう。