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文芸評論家 富岡幸一郎 祈りの文学と出会う旅『天路(てんろ)』

『天路(てんろ)』リービ英雄著(講談社・1870円)

昭和62年の『群像』3月号に発表された、リービ英雄のデビュー作『星条旗の聞こえない部屋』を読んだときの衝撃は、今も忘れがたい。

アメリカ人として生まれ、『万葉集』の英語訳という偉業を成したジャパノロジストによる初の日本語小説。以来、日本に移り住んだ作家は、この国の一千年にわたる文学の最前線で書き続けてきた。

万葉の歌人、山上憶良が百済生まれの帰化人であるとの学説を知ったとき、日本文学研究者は、「言霊の幸(さき)はふ国」の言葉を用いて小説家となることを決心したのだろう。この「大和の国」の言葉は日本人だけのものではないと。

そして島国のコトバのルーツたる中国大陸へと、さらなる越境を重ねて、今ここにその最果てのチベット高原へとたどり着く。4つの短編を収めた本書は、いずれもこの世界の屋上で高度な祈りの文学をつくり上げた、その蔵文(チベット語)との出会いの旅の記録である。

漢民族の友人の運転する日産のブルーバードに乗って、天へと昇るようなチベット高原の道を何百キロも走り、蔵民の大寺院へ。山の頂には「日本語では鳥葬、中国語では天葬の台が設けられている」。

〈生者が死者をおんぶして、天葬の場所へとこの山を登るのだ。おぼろげな記憶の中から、死者がたどる天路(あまじ)という古い日本語が頭に浮かんだ。昔かれはthe path to heavenと翻訳したこともあった。草の中のこの細い登り道も天路なのだろうか、と思った〉

故国に残した母親の死。その痛みと喪失感のなかで一千年、生と死に思いを巡らせる西蔵(チベット)の文字と声の響きが作品を領している。それが島国の膠着(こうちゃく)語たる日本語で表現されるのだ。越境文学の達成であり、言霊の勝利である。

『溶ける街 透ける路』多和田葉子著(講談社文芸文庫・1760円)

ドイツ語と日本語で創作を続け、今最も世界で注目される詩人・作家の旅のエッセー。ハンガリーのブダペストからヨルダンのアンマンまで世界48の町を巡る。ドイツ在住の長い作家は、母語の外へ出ることで異なる言葉の音を鋭敏に聴き続ける。それが日本語に新しい力を贈る。ケルンのドームを「森の叫びと狼の悩み」と名付けるとは素晴らしい。

富岡幸一郎さん
富岡幸一郎さん

とみおか・こういちろう 昭和32年、東京生まれ。中央大仏文科卒。『群像』新人文学賞評論部門優秀作。関東学院大教授、鎌倉文学館館長。著書に『内村鑑三』他。