モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら

(110)久しぶりに見た首相の笑顔

事実上の退任記者会見で、時折吹っ切れたような笑顔を見せた菅義偉首相=9日午後、首相官邸(春名中撮影)
事実上の退任記者会見で、時折吹っ切れたような笑顔を見せた菅義偉首相=9日午後、首相官邸(春名中撮影)

2050年までに温室効果ガスの排出を実質ゼロにするという目標の設定、デジタル庁の創設、携帯料金の値下げ、35人学級の実現、不妊治療への助成、最低賃金の引き上げ、福島第1原発処理水の海洋放出決定、一定の収入のある後期高齢者の医療費窓口負担のアップ、憲法改正の手続きを定める改正国民投票法の成立…。新型コロナウイルス対策と東京五輪・パラリンピックの安全・安心な運営という激務に追われながら、よくぞここまで仕事をしたものだと感心した。

9日夜に開かれた事実上の退任会見で、菅義偉(すがよしひで)首相は時折吹っ切れたような笑顔を見せ、菅政権が積み上げてきた実績を語った。あれが足りない、これが気にくわない、という減点方式一辺倒の報道に終始するマスメディアへ意趣返しをするかのようだった。こんな会見を頻繁に開き、政権が取り組んでいる課題について国民に率直に語りかけていたら、と悔やまれる。

朝日新聞(11日付朝刊)は社説で《わずか1年で行き詰まった政権運営を総括し、その功罪について、正面から問いに答える場を改めて設けるべきだ》と批判し、東京新聞(9日ウェブ版)は記事の最後に《こうした菅首相の演説に対して、ツイッターでは「ずーっと自画自賛の会見」「何を失敗したのかを絶対に振り返らない」「そんなに実績あるなら総裁選無選挙で選ばれるでしょ」などとの反応が上がった》と、菅首相を揶揄(やゆ)する言葉を紹介した。やれやれだ。メディアの大切な役割が権力の監視であるのは重々承知しているが、もう少しフラットに是々非々の報道や主張ができないものだろうか。

かくいう私も菅首相には不満を持ち続けていた。永田町とは縁もゆかりもない文化部の片隅に棲息(せいそく)する雑文書きの感想として受け止めていただきたい。

不満とは、菅首相の表情が暗く言動に躍動が感じられなかったことだ。これではコロナ禍に苦しむ国民は鼓舞されず、ともに頑張ろうという気になれない。「自民党をぶっ壊す」と宣言し、新自由主義的経済政策で日本社会をかき回した小泉純一郎元首相には、たとえば勤務実態がない会社員時代に厚生年金に加入していた問題を追及されたときの「人生いろいろ、会社もいろいろ」というむちゃくちゃな答弁でさえ、国民を納得させてしまう勢いとノリがあった。郵政民営化にしても何がよくなったのかさっぱり理解できないが、小泉氏の躍動感あるパフォーマンスに国民はまんまと乗せられてしまった。

その差は個人の資質の問題というよりも、激しい権力闘争を勝ち抜いたかどうかの差ではないかと思う。

権力の魔力にからめとられた?

モンテーニュは第3巻第10章「自分の意志を節約すること」に《わたしの持論は、「他人に自分を貸すことはしなければならないが自分以外の者に自分を与えてはいけない」ということである》と記している。貸したのであれば取り戻すことができるが、与えてしまえば取り戻すのは難しい、ということだ。《少しも他人のために生きない者は、ほとんど自分のためにも生きていない》と考えるモンテーニュの場合、宗教戦争の調停役や、ペストに襲われたボルドーの市長を務めたのは、あくまでも自分を「貸す」ことだった。その役目を果たすと、すぐに自分を取り戻し、城に籠もってせっせと『エセー』を書き続けたのだ。彼のようにきっちりと線を引いた、潔い身の処し方は、凡人にはなかなか難しい。

菅さんだが、首相になるさいに、党内のある勢力に自分を貸したつもりになっていたのだと思う。いざとなればいつでも自分を取り戻せると。ところが、権力の魔力にからめとられてしまう。その座を守るためにさまざまに忖度(そんたく)を重ねるなかで、ずるずると自分を他人に与えたに等しい状態に陥ってしまったのではないか。こんな状態で躍動できるはずもない。

振り返れば、権力闘争をへずして、棚ぼた式に首相の座に就いた人物に、国民を鼓舞するような躍動感はなかった。自分を他人に与えてしまい、忖度が必要だったからだろう。佐藤栄作首相の後継を狙った三角大福中(三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫、中曽根康弘)の仁義なき闘いともいうべき激しい権力闘争を再現せよとはいわないが、首相の座とは、自らの理念を実現するために胆力と狡智(こうち)をもって勝ち抜いた人物が就くのが妥当とも思う。

退任会見での菅首相の吹っ切れた笑顔は、退任を決めたことで、他人に与えた自分をやっと取り戻せた結果であったように思う。あの笑顔はとても魅力的だった。

駅伝走者の自覚と責任を

さて、自民党の総裁選挙が始まった。直後に総選挙が控えているだけに、確固たる地盤を持たぬ当落線上にいる若手国会議員のなかには、自らの理念や政策は棚に上げて、国民に人気のある人物に党の顔となってもらいたいと考える者も多いようだ。何といっても、ポスターは人気者と一緒のほうが効果的だから。

彼らの行動は、モンテーニュのいう「貸す」ことなのか、それとも「与える」ことなのか。書生めいた物言いになるが、政治家にとって何よりも大切なのは理念と政策だろう。たとえ自分が当選するための方便であったとしても、これを棚上げできる政治家を私は信用しない。理念と政策の棚上げは、自己否定、すなわち自分を与えることにつながる。

ところで、自民党総裁、つまり首相となる人物の絶対条件とは何だろう。個人的にはこう考える。ゴールのない駅伝の一区間を担うランナーであるという自覚と責任を持つことだ。すなわち、父祖が大切に守ってきたものをきちんと受け継ぎ、15~16世紀を生きたオランダの人文主義者、エラスムスの格言を借りるなら「ゆっくり急いで」改良すべきは改良し、次の走者にたすきを渡すということだ。

では、何をもってそれを確認するのか。私の指標は次の2点だ。皇室を戴(いただ)く国柄を本気で守ろうとしているか、自主独立を貫くために必須の憲法改正に取り組む気概を持っているか-である。この点を明確にしない政治家に日本のかじ取りを任せたいとは思わない。

候補者にはこの2点を明確にしたうえで、新型コロナ対策、経済再生プラン、覇権主義を強める中国と軍事的脅威を増す北朝鮮への対処、地球環境問題への対応など、喫緊の課題について大いに国民に語りかけてほしい。

※モンテーニュの引用は関根秀雄訳『モンテーニュ随想録』(国書刊行会)による。