話の肖像画

台北駐日経済文化代表処代表・謝長廷(75)(16) 「五輪」断念、最難関の台湾大法学部へ

器械体操の選手として日本の国体に相当する台湾の大会に出場。つり輪で倒立を決める謝長廷代表 =1961年ごろ
器械体操の選手として日本の国体に相当する台湾の大会に出場。つり輪で倒立を決める謝長廷代表 =1961年ごろ

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《器械体操選手として活躍していた高校時代。どのような成績を挙げていたのか》

中学時代に出会った駱(らく)温寿先生の指導で始めた器械体操が、私には性に合っていたようでした。日本の国民体育大会(国体)にあたる台湾の大会で優勝したことがあります。つり輪も得意で、その大会で金メダルをいただきました。台湾代表選手としてオリンピック出場を真剣に考えたこともありましたが、最終的には出場できる水準に達しておらず、諦めざるを得ませんでした。だからこそ、赴任先の日本で開かれた今年夏の東京五輪・パラリンピックで、台湾選手たちの活躍を自分の目で見ることができたのがうれしかったのです。自分も心の中ではどこか、東京五輪に出場しているような気分でしたね。

商業高校に入って、ちょっとした悩みがありました。つり輪を始め、器械体操のトレーニングを毎日していて、指がどんどん太くなってきました。ところが商業高校で欠かせないソロバンの計算では、太くなった指で玉をはじくと、2、3個同時に動いてしまうのです。いま思い出せば笑い話ですが。

《五輪断念後は最難関大学をめざし、さらに司法試験まで合格した》

台湾代表での五輪出場を断念した悔しさが、新たな人生の目標に向けてバネになったのかもしれません。国民党の一党支配による強権政治だった時代です。社会のさまざまな矛盾や問題が噴出しており、弁護士という職業が脳裏に浮かび上がっていました。弟や妹が優秀な学校に進んでいましたし、ここで人よりも2倍も3倍も勉強して、最難関の台湾大法学部に行くぞ、と心に決めたのです。

運よく合格しましたが、台湾大に入ってみると同級生は右も左も有名高校の出身者ばかり。正直、(商業高校出身に)劣等感を抱いたこともありました。だからこそ大学でも朝から晩まで毎日、必死に勉強しました。当時も負けず嫌いだったのかもしれませんね。

当時の台湾は、弁護士資格と裁判官資格では試験が分かれていました。弁護士試験の方が数段難しく、現職の裁判官が弁護士試験を受けるケースもあったほどです。試験には例えばローマ帝国時代の法制度を問うといった、大学4年でやっと習うような難しい問題もありましたが、独学を続け、3年生のとき無事試験にパスしました。

《当時の台湾社会のどんな矛盾に疑問を感じていたのか》

例えば弁護士資格がいいかげんでした。国民党政権の独善的なルールで、台湾に渡ってくる以前に中国大陸で選出された国民党の立法委員(国会議員に相当)は立法府の人間だとの理由で(法律知識は乏しくても)自動的に弁護士資格を与えていました。軍事裁判の場合は、(裁判官の資格なき)軍人が裁判官になるなど、ありえないことが横行していました。

一方で正式な弁護士資格の司法試験は、約1500人が受験してせいぜい7人前後が受かる程度の狭き門だったのです。

《台湾大を卒業して、さらに京都大大学院に留学した》

台北市内にあった日本大使館で試験を受けて合格し、1972年4月に晴れて正式な国費留学生として京都大大学院に入りました。子供のころから日本語に慣れ親しんできたこともあり、日本への留学は自然な成り行きでしたね。

ところが京都で研究生活を始めて半年足らず。大学院生には想像もできないことが起きたのです。その年の9月に突然、日本が台湾と外交関係を断ってしまいました。台湾からの国費留学生はいったいどうなるか。不安な毎日が始まりました。(聞き手 河崎真澄)

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