【話の肖像画】台北駐日経済文化代表処代表・謝長廷(75)(15) 台北で漢方医の一家に生まれて(1/2ページ) - 産経ニュース

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台北駐日経済文化代表処代表・謝長廷(75)(15) 台北で漢方医の一家に生まれて

漢方医だった父(後列左)や母(同右)、弟や2人の妹と記念写真におさまった小学生の謝長廷代表(前列右端) =1954年ごろ
漢方医だった父(後列左)や母(同右)、弟や2人の妹と記念写真におさまった小学生の謝長廷代表(前列右端) =1954年ごろ

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《台北に住む漢方医の一家に生まれた》


父は大正5(1916)年の生まれで、漢文の素養もある漢方医でした。台北の大稲埕(だいとうてい)という古くから栄えた地域で地元の人たちの診療をしていました。

私は戦後すぐ、46年5月に生まれました。父は漢方医といっても自前の診療所はなく、漢方薬の薬局で店頭を借りて、診察をしていました。一家はあまり裕福ではありませんでした。

父は教育熱心でした。ところがどういう経緯か、私が小学5年生のとき、縫製工場への投資で失敗し、一家は財産を失ってしまいました。その日の食べ物にも困るようになったのです。

当時の小学校は補習などに月謝が必要でした。でもそんなお金もありません。私は学校の先生が使っていた謄写版(とうしゃばん)という小さな機械で印刷の手伝いをしては、月謝分を稼ぎました。


《少年時代の台北の雰囲気は》


日本語がまだ普通に使われていました。母の実家などはほとんど日本語で話していました。日本の「平凡」や「明星」といった雑誌も貸本屋にありました。雑誌の最後のページに借りた人が判を押す欄があったのですが、日本から届いた雑誌1冊を、100人前後が借りて読んでいたことを覚えています。

あのころの台湾でも吉永小百合、浅丘ルリ子、石原裕次郎らの人気が高かったですね。


《日本時代の文化的な影響は戦後も色濃く残ったのか》


戦後、台湾を統治した蔣介石(しょう・かいせき)らの国民党政権は、ラジオ放送で日本語の使用を禁止していました。テレビはまだ普及する前のこと。ただラジオで宮本武蔵、国定忠治、丹下左膳(たんげ・さぜん)といった時代劇が毎日のように流れていました。日本語ではなくとも日本の物語が好評でした。

日本の歌もメロディーまでは禁じられず、「博多夜船」などの曲を聴いていました。確か年間5本くらいは日本で製作された映画の上映も認められていて、鶴田浩二などが好きでしたね。

戦前から台湾に暮らしている世代は、中国大陸から渡ってきた国民党が発行していた新聞は信用しませんでした。電子部品を集めて短波か中波のラジオ受信機を自作し、NHKや米国のボイス・オブ・アメリカ(VOA)で海外ニュースを聞いている人もいました。