【東京特派員】小さい秋を見つけ忘れた 湯浅博 - 産経ニュース

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東京特派員

小さい秋を見つけ忘れた 湯浅博

秋の気配が見える「白露」を迎え、そろそろ小さな秋を見つけることができるかもしれない。詩人のサトウハチローは、文京区弥生2丁目の自宅の庭で、ハゼノキが色づいた情景から童謡「ちいさい秋みつけた」を詠んだ。

旧宅はすでに、ゆかりの岩手県北上市の「サトウハチロー記念館」として移築されている。庭のハゼノキだけは丸ノ内線後楽園駅近くの礫川(れきせん)公園に移植されていることが分かった。

後楽園駅北側すぐの礫川公園に入ると、左側に大きく枝を広げた株分けのハゼノキが目に飛び込んできた。移植された際は、わずか1メートルの切り株だったが、5本の細いひこばえが立派に成長して、葉が赤く染まる日を待っている。

その左に仲良く並ぶのは、作家、幸田文宅にあったハンカチノキで、娘の幸田玉さんからの寄贈によって平成14年に移植されている。4月の終わり頃になると、つぼみを包む白い苞葉(ほうよう)が葉陰からのぞく。ちなみに、「礫川」の名は、松尾芭蕉が江戸の小石川を詠んだ句にちなんでいる。

一時雨(ひとしぐれ)礫(つぶて)や降って小石川

北東側の花壇は、文京区に住んだ宮沢賢治が残したデザインに由来するというから、公園は文京文化の集合体である。

とはいえ、礫川公園のハゼノキは、サトウハチローの歌詞のように「はぜの葉あかくて 入日色」というには早すぎる。ちょうど駅をはさんで南側には、水戸徳川家の上屋敷内にあった名庭園「小石川後楽園」がある。後楽園には七草のひとつのハギか、寂しげなヒガンバナが咲いているから、足を延ばせば小さい秋がきっと見つかる。

後楽園といえば、東京ドームの後楽園球場を思い描く。だが、江戸期には徳川御三家のひとつ、水戸藩の上屋敷の築山泉水回遊式の大庭園を指している。当時の上屋敷は、後楽園をはじめ東京ドーム、礫川公園、中央大学後楽園キャンパスを含む広大なもので、藩邸の敷地は約33ヘクタール(約10万坪)もあった。

水戸藩邸は明治新政府によって接収され、御殿があった東側には東京砲兵工廠(こうしょう)が立地した。西側の大庭園は、工廠の拡張が議論されたが、陸軍卿の山県有朋が「天下の名園を壊すに忍びない」と反対し、危ういところで生き延びた。

庭園は藩祖、頼房が当時の名高い庭師に造らせ、水戸黄門で親しまれる2代光圀が引き継いだ。光圀は亡命した明の儒学者、朱舜水に改めて作庭を依頼し、その名残が「円月橋」と呼ばれる反りの強い石橋に見ることができる。半円形のアーチだから、水に映ると満月を浮かべたように見えるのが名の起こりらしい。

庭園名も「民に先立って天下を憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」と、君主の心がけを説いて「後楽園」と名付けた。

時の御三家とは豪気なもので、庭園だけで東京ドームの約1・5倍という広さがある。中心に配される大池「大泉水」が琵琶湖を模したように、実在の風景を随所に取り込んでいる。南の棕櫚山(しゅろやま)には五街道のひとつ、中山道の「木曽路」がそうであるように琵琶湖にあたる大泉水へと通じる。西の流れに「渡月橋」がかけられ、こちらも京都の嵐山にちなんでいる。

しかるに、そこは質実剛健が家風の水戸様は、門番からしてこわもてだった。落語の「孝行糖」は上屋敷のいかめしい振る舞いが伏線として成り立っていた。孝行糖なるあめを売り歩く与太郎が、水戸様門前で鳴り物入りをやり、六尺棒で打たれてしまう。「どことどこを打たれた」との問いに、「こうこうと、こうこうと」で落ちになる。

当時の水戸家正門は、東京ドームとの境にある後楽園の東門のあたりだったようだ。本来は、そこから入って藩邸の書院の庭を経て本庭に至る。南に神田川の低地、後ろは小石川台の「後山前水」という地形が、後楽園の見事な立地条件である。

というわけで、後楽園のすばらしさと、その歴史に圧倒され、小さい秋を見つけるミッションはすっかり忘れてしまった。(ゆあさ ひろし)