【歴史シアター】天平パンデミックから復興 宰相・橘諸兄の実力度 - 産経ニュース

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天平パンデミックから復興 宰相・橘諸兄の実力度

橘諸兄が造営したとされる井手寺の堂塔跡
橘諸兄が造営したとされる井手寺の堂塔跡

奈良時代、聖武天皇のもとで政権を掌握し、権勢をふるった橘諸兄(たちばなのもろえ、684~757年)が創建したとされる井手寺跡(京都府井手町)近くで出土した五重塔とみられる基壇跡。井手寺に隣接して塔院を構成していたとみられ、井手寺の壮大な伽藍(がらん)をほうふつとさせる。その遺構からは、諸兄が平城京からの遷都先として誘致したとされる恭仁(くに)京(京都府木津川市)で使われた瓦や平城京の瓦が大量に出土した。恭仁京は3年余りで廃絶し、造営工事も中止された。が、その部材が、私寺である井手寺の造営に使われていたことは、諸兄の強大な権力、寺の造営が国家規模の大事業だったことを示しているようにみえる。

平城京の瓦も

基壇跡は井手寺跡のすぐ東側から出土。東西15・3メートル、南北15・1メートルのほぼ正方形で、質の異なる土を積み重ねて強度を持たせる「版築(はんちく)」で土台を造り、外装に自然石や割石を使った乱石積が施されている。北側と西側の2カ所から階段が確認され、基壇の周囲約1・5メートルの範囲で自然石などによる石敷きが構成されていた。ただ、開墾などによって上面が削平されており、現状では高さ約70センチで、礎石は発見できなかった。基壇の規模から、上に建っていたのは五重塔と推定される。

一方、基壇跡周辺からは塔に使われていた瓦が大量に出土。その6割は平城宮(京)や恭仁宮(京)に関係する瓦で、2割程度が平安京や平安寺院に関係する瓦だった。恭仁宮関係の瓦は、造営に使われた「恭仁宮式文字瓦」や、文様の一部を変更したもの、同じ型(同笵(どうはん))を使って作られたものなどが多かった。

井手寺近くで出土した五重塔の基壇跡=今年4月、京都府井手町
井手寺近くで出土した五重塔の基壇跡=今年4月、京都府井手町

出土瓦の年代観から、塔の工事は奈良時代後半から、平安時代前期にかけて長期間続けられたことが推測される。工事の早い段階では、国が関わった事業で使われた瓦などが大量に使用されたとみられる。平安時代中期にいったん修理されたものの、鎌倉時代には老朽化し、廃絶したとみられる。

大寺院並み

井手寺の創建は記録にないが、平安時代の国語辞書「伊呂波字類抄(いろはじるいしょう)」(橘忠兼)に「井手寺に橘氏の氏神が祭られている」とあることから、南山背(京都府南部)を本拠とした橘氏が造営氏族で、「井手左大臣」と号した橘諸兄が創建に関わったとされていた。続日本紀では、諸兄がこのあたりに、別荘の「相楽別業(さがらべつごう)」を置き、聖武天皇が行幸で滞在した「玉井頓宮(とんぐう)」があったとされる。

これまでの発掘調査で、井手寺跡からは礎石建物6棟の遺構などが見つかっているものの、伽藍の配置については不明。ただ、寺域を区画する溝が確認されていることから、寺域は約240メートル四方とされる。今回の塔跡は寺の主要伽藍のある区画の外側にあることから、塔を中心とした区画「塔院」を構成していたとみられる。塔院は、平城京にある東大寺や元興寺などの大寺院では例があるものの、地方寺院にはほとんど見当たらない。

3年足らずで廃都となった恭仁京(宮)跡。瓦は井手寺造営に使われていた=京都府木津川市
3年足らずで廃都となった恭仁京(宮)跡。瓦は井手寺造営に使われていた=京都府木津川市

続日本紀によると、恭仁京は天平12(740)年12月、聖武天皇によって平城京から遷都された。井手寺から直線で6キロ程度、橘氏の勢力地である南山背にあり、遷都先として招致したのは諸兄とされる。遷都の決定と同時期に、京の工事を本格化させ、平城京の大極殿なども移築されている。ところが、遷都から3年余りたった同16(744)年2月、難波宮(大阪市)への遷都が宣言され、恭仁京は工事が終わらないまま、廃都になった。

国事業 私的流用?

発掘調査した京都府埋蔵文化財調査研究センターの福山博章主任は「井手寺跡からも恭仁京関係の瓦が出土しており、恭仁京廃絶の後に瓦を持ってきたのだろう。国の事業に使われた瓦が、井手寺に使われていることで、井手寺造営に国の関与が推測できます。政権の実力者だった橘諸兄が国家権力を私的流用したのか。この時代に、こんなことができるのは諸兄以外に考えられません。諸兄の権力の大きさを示しているのでしょう」と話している。(編集委員 上坂徹)

【橘諸兄】天武13(684)年の生まれ。敏達天皇の子孫、美努(みぬ)王の子で、母は県犬養橘三千代。葛城王と呼ばれた。天平8(736)年、臣籍に下り、母の姓を継ぎたいと上表して認められて、橘宿禰諸兄と称した。翌年、左大臣の藤原武智麻呂ら、政権で力を持っていた不比等の子4人が、平城京で流行していた天然痘に罹患(りかん)して次々と死ぬと、右大臣に任ぜられて、政権を掌握。入唐した吉備真備や僧・玄昉(げんぼう)を政治顧問に入れた。恭仁京遷都や大仏造立などにあたったが、藤原広嗣の乱の発生(740年)や、恭仁京経営の失敗もあって、台頭してきた武智麻呂の次男、仲麻呂(恵美押勝)に次第に実権が移った。真備や玄昉も左遷され、天平勝宝8(756)年に官を辞した。翌年、死去した。