失敗と成功で悲願の「金」つかんだ木村敬一 何事にも臆さず挑戦 - 産経ニュース

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失敗と成功で悲願の「金」つかんだ木村敬一 何事にも臆さず挑戦

東京パラリンピックで金を含め2つのメダルを獲得した競泳男子の木村敬一=東京アクアティクスセンター(桐原正道撮影)
東京パラリンピックで金を含め2つのメダルを獲得した競泳男子の木村敬一=東京アクアティクスセンター(桐原正道撮影)

5日に閉幕した東京パラリンピックで、13個の金を含む計51個のメダルを獲得した日本選手団。年代や障害の種類を問わず幅広いメダリストが生まれ、多様な選手が輝きを放った。その一人が競泳男子の木村敬一(31)。初の金を含む2個のメダルをつかんだエースは、先天性の病気により2歳で光を失った。それでも家族は幼い息子を外に連れ出し、さまざまなことを体験させた。成功と失敗を繰り返す中で身につけた抜群のセンスは、大舞台で結実した。

幼き日の木村を記録したホームビデオがある。自宅の庭で補助輪なしの自転車を乗り回し、駐車中の車や庭の端が近づくと足をついてストップ。すぐさまハンドルを切り、方向転換してまた走り出す。すでに失明していたが、その姿はさながら「見えている」かのようだ。

自宅の庭で自転車に乗る木村敬一=平成9年、滋賀県(木村稔さん提供)
自宅の庭で自転車に乗る木村敬一=平成9年、滋賀県(木村稔さん提供)

父親の稔さん(62)は言う。「タイヤから伝わる路面の状態やペダルをこいだ回数から、自分がどこにいるか判断しているんですよ」

モトクロスや自転車、スキー。多趣味だった稔さんは木村にさまざまなスポーツを経験させた。「言葉で聞くのと実際にやってみるのとでは理解が全く違う」(稔さん)

補助具を使ってスキーを楽しむ木村敬一(右)=平成13年、岐阜県(木村稔さん提供)
補助具を使ってスキーを楽しむ木村敬一(右)=平成13年、岐阜県(木村稔さん提供)

木村もあきらめない姿勢で応えた。冬のスキー場。稔さんは当初、そりで滑らせるだけのつもりだったが、木村は板をはいて滑走に挑戦した。最初は板の長さの感覚がつかめず転んでばかり。だが、メーカーから取り寄せた補助具を使ったり、インストラクターに指導を受けたりして、徐々にターンができるようになった。

地元・滋賀の盲学校で寄宿舎生活を送り、小学4年で水泳を始めた。12歳で上京し、筑波大付属視覚特別支援学校(東京)に入学。パラリンピックで金5個を含む計21個のメダルを獲得した河合純一さんらを育てた寺西真人さん(62)に師事し、トップ選手への道を歩み始めた。

「細くて小さい子」。寺西さんは木村の第一印象について、そう振り返る。だが、向上心は群を抜いていた。水泳部の練習日。寺西さんに用事が入ると、多くの生徒は練習を休んだが、木村は違った。校外のプールに一人で出かけ、黙々と練習をこなした。

小学5年の頃、スイミングスクールで泳ぐ木村敬一=平成13年、滋賀県彦根市(木村稔さん提供)
小学5年の頃、スイミングスクールで泳ぐ木村敬一=平成13年、滋賀県彦根市(木村稔さん提供)

高校3年時の2008年北京大会でパラリンピックに初出場。日本大在学中の12年ロンドン大会では2つ、卒業後の16年リオ大会では4つのメダルを獲得したが、木村の心は満たされなかった。

「何が何でも東京で金を取る」。18年、さらなる高みを求めて選んだ道は、単身での渡米だった。全盲で英語もままならない中の武者修行。高いハードルにも思えるが、稔さんは「昔からいろんなことに挑戦してきたからこそ、やってみようと思えたのだろう」と目を細める。

今月3日の100メートルバタフライ(視覚障害S11)決勝。大一番をテレビで観戦していた稔さんの目には、スタート台に手を添え、足をストレッチする木村の表情がいつになく引き締まって見えた。1分あまりのレースの後、トップでゴールした木村の頰は歓喜の涙にぬれていた。

悲願の金メダリストとなった息子から着信があったのは、その日の深夜。「おめでとう。良かった」。稔さんがねぎらうと、「前半は蛇行してしまったし、ターンにもミスがあった」。手放しでは喜ばず、反省点を口にしたという。

目が見えない中でさまざまな課題に挑み、成功と失敗を繰り返しながら、自分の体を操るコツや積極性を身につけていった木村。息子の歩んできた道のりを振り返り、稔さんはこう実感を込める。

「障害のある子供でも、『やってみたい』というものが必ず出てくるはず。少しずつ挑戦を重ねることが大事だと改めて気づかされた」

(花輪理徳)

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