北の「不法行為明らかに」 帰還事業訴訟、10月に初弁論 - 産経ニュース

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北の「不法行為明らかに」 帰還事業訴訟、10月に初弁論

北朝鮮の金正恩氏を被告の代表者とする公示送達の掲示=東京都千代田区
北朝鮮の金正恩氏を被告の代表者とする公示送達の掲示=東京都千代田区

「祖国は『地上の楽園』だ」-。昭和30年代半ばから四半世紀にわたり、主に経済的に困窮していた在日朝鮮・韓国人らを狙ってプロパガンダが繰り返された北朝鮮帰還事業。数十年間に及ぶ劣悪な環境下での生活を強いられた脱北者が北朝鮮政府に損害賠償を求めた訴訟が、提訴から3年を経て10月に初弁論を迎える。北朝鮮を相手取った初の訴訟で、原告らは「裁判を通じて北朝鮮の不正を明らかにしたい」と訴える。

被告は「金正恩」

「被告 朝鮮民主主義人民共和国代表者国務委員会委員長 金正恩様」

8月16日、東京・霞が関の東京地裁前の掲示板に、民事裁判への出頭を促す呼出状が貼り出された。名指しされたのは言わずと知れた北朝鮮の最高指導者。帰還事業をめぐり、日本で暮らす脱北者5人が北朝鮮政府に各1億円の損害賠償を求めた訴訟の第1回口頭弁論の期日が、10月14日に決まったのを受けた措置だった。

国家に対しては通常、別の国家の裁判権が及ばない「主権免除」の原則があるが、原告側は「日本は北朝鮮を国家と承認しておらず該当しない」と主張。平成30年8月の提訴以降、地裁と原告との間で6回の進行協議が開かれ、被告が応訴しないことを前提に主張や証拠の整理が行われてきた。

日本と国交がない北朝鮮は、大使館などの政府を代表する機関が日本国内になく、地裁は訴状などの裁判資料の送付先もないと判断。呼出状の隣に資料の目録を一定期間掲示することで、被告側が資料を受け取らなくても法律上届いたとみなす「公示送達」の手続きを取った。原告側によると、北朝鮮政府への公示送達が行われるのは初めてだという。

〝楽園〟での差別

北朝鮮は昭和34~59年、在日朝鮮・韓国人とその日本人配偶者ら家族を対象に、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)とともに「北朝鮮は十分な衣食住や無償教育・医療が保障された『地上の楽園』」などと宣伝、集団移住を推進した。背景には、自国のイメージ向上による韓国への政治的優位の確立や、石炭業や農業などの労働力確保といった狙いがあったとされる。

帰還事業には日本政府も赤十字国際委員会の仲介の下に協力。約7千人の日本国籍者を含む9万3千人以上が渡航したとされるが、〝楽園〟で待ち受けていたのは過酷な現実だった。

訴状によると、原告らを含む日本からの帰還者は「出身成分」と呼ばれる身分制度に基づき、最下層の「敵対階層」か、それに次ぐ「動揺階層」に分類されて差別され、当局の監視対象となった。食糧の供給も不十分で、出国も認められないなど、基本的人権が抑圧された「国家誘拐行為」だったとしている。

北朝鮮政府を相手取った損害賠償請求訴訟の原告の1人、川崎栄子さん=8月5日、東京都内
北朝鮮政府を相手取った損害賠償請求訴訟の原告の1人、川崎栄子さん=8月5日、東京都内

原告の1人で在日朝鮮人2世の川崎栄子さんは、今も複数人の子供と孫を北朝鮮国内に残す。案じているのは、金正恩体制の確立に伴う監視の強化だ。一昨年までは家族が中国国境周辺まで来て携帯電話で安否を知らせてきたが、現在は電話もない。物品を郵送しても、新型コロナウイルスの感染が拡大して以降は、届かずに返送されるようになった。「空も海も遮断されてしまった」と危機感を募らせる。

除斥期間の適用争点

「被告不在」の訴訟は第1回口頭弁論で原告5人の本人尋問などが行われ、即日結審する見通し。最大の争点は、北朝鮮が①虚偽の宣伝で渡航を勧誘したこと②渡航後に出国を妨害したこと-が、一体の不法行為だと認定されるか否かだ。

原告らの北朝鮮への渡航時期は約50~60年前。虚偽の宣伝だけでは、不法行為に対する民法上の賠償請求権が20年で消滅する「除斥期間」が適用される可能性がある。実際、今回の原告の一人で、昭和38年に3歳で北朝鮮に渡航した脱北者の女性が平成20年、虚偽の宣伝で損害を受けたとして朝鮮総連を提訴したが、大阪地裁は除斥期間を適用し、請求を棄却している。

このため、今回の訴訟で原告側は「帰還者が北朝鮮から出国すれば『地上の楽園』が嘘だと国外に広く知られてしまうため、虚偽宣伝による渡航勧誘と出国妨害は不可分だった」と主張。川崎さんは「帰還事業が誤りだったと国際的にも明らかにしたい。今回の裁判を、北朝鮮の現政権を崩壊させるきっかけにしたい」と期待を寄せる。

ただ、勝訴しても北朝鮮が賠償金支払いに応じる可能性は極めて低い。原告側の弁護士は「北朝鮮船舶の差し押さえなど、海外では債権回収の試みもなされている。北朝鮮政府の人権侵害追及は国際的に行われており、法律家のネットワークを使いながら執行を検討していきたい」と話している。(村嶋和樹、塔野岡剛)