【本郷和人の日本史ナナメ読み】古文書、研究と収集㊦ 部下を「下げつつ上げた」頼朝 - 産経ニュース

メインコンテンツ

本郷和人の日本史ナナメ読み

古文書、研究と収集㊦ 部下を「下げつつ上げた」頼朝

毛利空桑肖像写真=毛利空桑記念館提供
毛利空桑肖像写真=毛利空桑記念館提供

史料編纂(へんさん)所の文書調査について、少しご紹介してみましょう。平成9年、ぼくは教授お一人、助教授お一人とともに、3人で大分市の歴史資料館を訪ね、文書資料の調査をしました。そのとき同館の学芸員の方が、一通の文書を見せてくださいました。それが「毛利空桑(くうそう)記念館文書」の一通で、当時、歴史資料館の預かりになっていた伝源頼朝書状でした。

頼朝と聞いて目を輝かせた私は、文書を撮影して史料編纂所に帰り、検討を始めました。文書は掛け軸にでもしたのか、下の余白部分が切られていましたが、作成時の形態をよく伝えてくれています。言葉遣い、文章、紙質などなど、中世初期のものとしておかしなところは見当たりません。次にその文章と訳をご紹介しましょう。文書中で改行しているところは▽印で表しています。


【原文】被仰下候、丹波国▽前(カ)山庄住人為重・永▽遠等、可令召進事、謹以▽承候了、但京都にさも▽候ぬへき家人も不候候、如此▽少事者、只仰付検非違▽使、可被召候也、猶可令召▽進候者、時定に可令仰付▽御候、彼男不当第一不覚▽烏許者に候、然而行家▽なとを尋出候許に候、▽召取件輩候はむ間も▽定致僻事候歟、且以書▽状、所令下知候也、以此旨可令洩▽達給候、頼朝恐々謹言、▽七月十七日 頼朝(花押)


【現代語訳】仰せ下されました丹波国前(カ)山庄の住人為重・永遠などを捕縛いたしますこと、謹んで承りました。ただし、京都にはしかるべき家来がおりません。このような小事は検非違使(けびいし)に仰せつけるのが適当かと存じます。でも是非にとのことでしたら、(北条)時定に仰せつけ給(たま)うのがよろしいかと。この男はまったくだめなやつで不覚なばか者ですが、(源)行家を追討したばかりです。先の者を召し捕る間にもきっとよろしくないことをしでかすでしょうが、とりあえず書状で下知をいたしました。このことをどうかお耳に入れてくださいませ。


まず考えるべきは、この文書の真偽です。そこでこれを、「保阪潤治氏旧蔵文書」の中の「(年欠)四月七日、源頼朝書状」と比較してみました。この文書は頼朝文書研究の第一人者、黒川高明先生により、間違いのないものである、とのお墨付きをいただいています。すると、両者の筆跡は実によく似ていることが分かりました。国、庄、重、承、家、候(さぶら)はむ、などが同じような形でくずされているのです。

さらに、現在は駒沢大学で教鞭(きょうべん)を執っておられる、林譲先生が教えてくださいました。「島津家文書」中の「(年欠)七月十日源頼朝御教書(みぎょうしょ)」の字は、右の2通の字と一致する。この文書で頼朝の意をうけて文書を書いているのは、奉者(ほうじゃ)として署名している「平」であり、これは頼朝の書記役として旺盛な活動を見せている平盛時である、と。大分の頼朝文書は平盛時が書いた、本物とみて間違いないでしょう。ちなみに、頼朝が自身で書いた文書というのは、今のところ発見されていません。みな右筆(ゆうひつ)と呼ばれる、書記役が書いています。林先生は、この書記役たちについての研究に力を注いでいらっしゃいます。

文書の宛先は書いてありませんが、このような文書は直接には吉田経房という人物に宛てられ、そこから後白河法皇に伝えられるのが常でした。本文書も「洩れ達する」という表現を使っているので、真の宛先は後白河法皇とするのが妥当でしょう。

文中では、北条時定がぼろくそに言われていますね。「不当第一、不覚烏許者」。烏許は正しくは烏滸(おこ)、でしょうか。愚かしいさまを指します。時定は北条時政の一族で、いとことも、甥(おい)とも。本当は彼の方が北条の本家筋だ、という説もあるようです。文治2(1186)年5月12日、彼は和泉国近木郷に潜んでいた源行家(新宮十郎。頼朝や義経の叔父)の居所をつきとめ、襲撃して誅殺(ちゅうさつ)するという大手柄を立てています。頼朝は時定を下げているようで、彼の功績をちゃんと法皇に売り込んでいるのです。またこのことから、文書は年欠ですが、文治2年のもの、と考えてよいでしょう。

最後に、なぜこの文書が大分にあるのか、という話を。大分県の大部分は豊後国ですが、同国を長く治めていたのが鎌倉時代以来の大友氏。ところが大友吉統(よしむね)は豊臣秀吉によって改易され、大名・大友家は失われてしまいます。大友家の一流は松野と姓を変え、熊本の細川氏の重臣となりました。それで、明治20年の史料編纂所の調査によると、松野直友氏が所蔵する文書の中に、本文書がありました。

松野家が所蔵する文書は流出したようで、本文書は大分の学者、毛利空桑の手に渡ったようです。同氏が集めた文書は大分市が運営する「毛利空桑記念館」の所有になり、同様に大分市の施設である歴史資料館が保管している、とのことでした。

ただ、この説明でも、そもそもなぜ、大友氏がこの文書を持っていたのかは不明としかいいようがありません。この点については、後考を期したいと思っています。

次回は10月7日掲載予定です。

毛利空桑

1797~1884年。江戸時代末期から明治時代初期にかけて活躍した儒学者、教育家、尊皇論者。熊本藩の飛び地であった豊後国大分郡高田郷常行(つねゆき)で、熊本藩の藩医、毛利太玄(たいげん)の第2子として生まれる。帆(ほ)足(あし)万(ばん)里(り)のもとで儒学を学び、熊本藩の藩校時習館でも学んだ。28歳で帰郷して、知来館と称する塾を開いた。門弟は1000人を超え、尊皇思想家として吉田松陰らにも影響を与えた。写真を見ると、古武士の風格があり、長い刀を差しているのがわかる。空桑記念館の方に伺ったところ、午前は勉学、午後は武術に励んでおり、武道なくして真の文なし、が信条だったそうである。

【プロフィル】本郷和人

ほんごう・かずと 東大史料編纂所教授。昭和35年、東京都生まれ。東大文学部卒。博士(文学)。専門は日本中世史。

■この連載が本に

本連載が書籍化されました。『「違和感」の日本史』(産経新聞出版)、968円、好評販売中です。